2012年05月12日13時15分掲載
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文化
【核を詠う】(42)『短歌年鑑平成24年版』(角川学芸出版刊)から原発短歌を読む(2)「原発に憤り堪えているような入道雲ののぼる北空」 山崎芳彦
引き続き『短歌年鑑』に収録の作品(自選作品集、各5首)から、原発にかかわる(と筆者が読んだ)短歌を読むが、同年鑑に所載の、吉川宏志氏の評論「当事者と少数者」に、筆者は注目し、共感した。震災・原発事故を詠う歌人のありようについて、氏の見解は、柔軟にして強靭な内容で説得力を感じさせられた。その内容について、少し触れてみたい。引用させていただくので、吉川氏の意と異なるものになれば、筆者の責任であり、お詫びするしかない。(前回の冒頭の部分で、「同年鑑に収録されている短歌作品は平成22年10月から24年9月の期間のものと考えてよいだろう」と記してしまったが、「平成22年から23年9月の期間」の誤りでしたので訂正してお詫びを致します。)
表題からも明らかだが、具体的には昨年の大震災と原発事故を短歌として詠うことに関して「当事者」であるということと、「少数意見」の立場ということについての氏の考え方が述べられている。前者については大辻隆弘氏が、後者については岡井隆氏がそれぞれ新聞紙上で述べた発言についての論評である。
まず、「当事者」に関してだが、大辻氏が昨年十月三十日付けの毎日新聞の短歌月評で、「西日本に住む私は、日常生活において震災や原発事故を意識することはほとんどない。私は原発を容認してきたという意味で『加害者』であるが、日常的な感覚から言えば、私は震災や原発事故の『当事者』ではない。切実な危機や責任を感じてはいない。/そんな『非当事者』が、深刻ぶった歌を作るのは不遜なのではないか・・・。震災や原発について歌おうとすると、私はいつもそのような自問を感じてしまう。」と書いたのに対して、吉川氏は「非常に素直な言明をしていて、彼らしい文章」とし「私も西日本在住なので、理解はできる発言である。」とした上で「ただ、私は大辻とはかなり違った感覚を持っている。」と次のように指摘する。
「原発の危機は何も福島だけなのではない。日本全国に五十基以上の原発が存在している。今回痛切に理解したのは『想定外』(といっても日本では大地震はいつでも起こりうることだ)が起きれば、大事故が発生すること、そしていったん事故が起きれば、人間の手ではどうしようもなくなってしまうことだ。大辻は『当事者』ではないというが、私は『未来の当事者』になるかもしれないと思っている。また、食品の汚染については、知らないうちに『当事者』になっている可能性もある。」と氏の認識を述べ、「だから私は、福島第一原発の事故を詠むと言うより、これから起きるかもしれない第二、第三の危機を回避できるのか、そして私たちの言葉には社会のシステムを変える力があるのか、という問題意識で、今年一年、短歌や評論を書いてきた。」と述べている。
その吉川氏は、テレビを見て、津波を描写するとか、何かにたとえるという歌は作らなかったが、、それは「自分でそのような歌を作るより、実際に震災を体験した人の歌を読むほうが重要だと思ったからである。他人の歌を読んで、そこから受けた思いを記して行くことも、自分で表現することと同じくらい大切なこと」との考えからだと言う。
以上のように述べて、吉川氏は、「文学において自分が『当事者』かそうでないか、と言うことを決めるのは・・・自分が何に対してコミットメント(関与)したいかという意思が決定するものだと思う」との考えを明らかにするとともに、「今回の震災は非常に大きな事件である。だれもが何らかの部分についてコミットメントすることはできるはずだ。・・・さまざまな立場から、多くの人が、無意識の共同作業で、現在の危機を表現していく。それが理想だと私は思う。」と、氏の見解を明確にする。
たとえば、住所だけを見て、「非当事者」の歌と決めつけるような「短絡的な発言」をいくつか見てきた気がすること、さらに「当事者」でないという理由で自由な発言を妨害する雰囲気の醸成は「最もまずい」こととして「匿名でないかぎり、つまり責任の所在が明確であるかぎり多様な言論が交わされることを、私は肯定したい。」と、氏の立場を明確にする。
これは、短歌表現にとどまらない、今日における表現、言論のあり方にかかわる、極めて重要な、表現者としての吉川氏の主張であると思う。氏は、京都での歌会における津波についての出詠歌を、テレビ映像を見ての作品と思ってしまった経験があったが、実際にはボランイィアで被災地に入った人の作品であることを知ったことへの自らの反省とともに、作品のリアリティをつかむことの難しさを率直に述べ、「できるだけ先入観をもたずに、一首一首の表現に向き合うしかない、ということを改めて教えられた」と記している真率さに、筆者は感銘を受けた。
ここまでは、吉川氏が「当事者」と言うことに関して書いた部分である。これに続いて、岡井隆氏が昨年4月11日の日本経済新聞文化欄に寄せた「大震災後に一歌人の思ったこと」と題する文章にかかわっての吉川氏の、かなり「批判的」ともいえる見解を述べているのだが、紙幅の都合で次回に、内容を紹介することをお許しいただきたい。
前回に続いて、『年鑑』に収録の原発にかかわる作品を読みたい。
二〇ミリシーベルト校舎の子供らの季節の歌の声も消え去る
原発の安全標語に入選せし少年の背をTVは執拗に追ふ
2首 永平利夫
ひろびろと見えても見えない恐怖なるシーベルトはも日に異(け)に凝(こご)る 早崎ふき子
政治家と当事者の声いりみだれこの春慧眼(ゑげん)清浄にあれ
原田禹雄
原発に憤り堪(こら)えているような入道雲ののぼる北空
福島美恵子
無事に歌稿送りきたるも放射能の苦難の続くいわきの人よ
藤井 治
汚染せる牛乳なれば止むなきか溝に捨てゐるさまも映れり
逸見喜久雄
窓はみな嵌めごろしにて隙間なきビルなれ情報漏るるスキあり
人為及ばぬことある現(うつつ)の発端はかの揺れぞその後をまだ知らざりき 2首 蒔田さくら子
大地震にいつの日か遭はむ糸魚川静岡構造線の真上に住めば
蝉の尿(しし)に似るたわいなさ原発にヘリより撒きて水をかくると
2首 松田護夫
刻々と地球を汚してゆくことを排水成功とよびはばからず
移すべきところなきまま並びたり放射能汚染水青きドラム缶
文明の利器は凶器と喝破して正直太夫反骨の生
3首 水野昌雄
起き抜けに聞く原発のニュースに何とも知れぬ怒りは湧けり
毛利文平
核分裂の連鎖絶えざる原子炉の安全性など信ずるなゆめ
放射能の被曝を恐れ続々と故郷を捨てて県境を越ゆ
危機迫る炉心溶融(メルトダウン)を防がむと消防隊の注水続く
原子炉の爆発ありし東欧の美しき町は廃墟となりぬ
罪に怯え<脱原発>を叫べどもついに白馬の騎士にはなれず
5首 吉田みのる
炉心溶融など事も無げに報じいるテレビに声なく惨見つめおり
大津波に消され放射能に汚染されし村彷徨える痩せし牛群れ
灼熱の砂漠に柄杓で水掛ける図か原発の冷却撒水
原発の安全神話に慣らされし歳月の嵩だけ拡がる汚染
4首 米田憲三
わが窓に緑のゴーヤ炎えてをりひとり生き来て放射能と会ふ
榎沢房子
この星に人間などがいなければ良かりしとまで言わるるうつつ
大島史洋
迷走する原発後処理迷走する今年の台風夕べのニュース
大橋栄一
微量なる放射能腹一杯に吸いてはためく真鯉、緋鯉も
奥村晃作
すずしかる黒眼大きく見開ける小女子(こうなご)知らぬ放射能禍を
川井盛次
放射能規制値(ち)超ゆるを責める声謝する声ともに耳を離れず
木村博子
この先は放射能値が高さうよ 蜥蜴二匹がつと動き止む
久保田幸枝
‘11年原発放射線大量放出拡散と書き 塗りつぶして・・・・・と記す
近藤和中
『短歌年鑑平成24年版』に収録の短歌作品「自選作品」(5首)から原発にかかわる歌を読んでいるが、まことに多くの全国の歌人がさまざまに詠っているものだと思いながら、さらにその背後には厖大な原発短歌があるだろうことを実感する。
冒頭に読んだ吉川宏志氏の評論に、「さまざまな立場から、多くの人々が、無意識の共同作業で、現在の危機を表現していく。それが理想だと私は思う。もちろん、直接に読まず、象徴的に歌う人がいてもいい。」との言葉があったが、この『年鑑』に限らず、さまざまな発表の場に原発を詠う作品があり、読まれ、そしてさらに作品が生まれ続けていくと考えると、それは原発の今後について深く考え、何かを変える人々の力になると考えたい。次回も、引き続いて読んでいく。
(つづく)
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