2012年05月14日19時53分掲載  無料記事
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核・原子力

原子力発電は仏道とあいいれない 「いのちの尊重」と「足るを知る」を 安原和雄

  仏教者の集まりである全日本仏教会の「反原発」宣言文、「原子力発電によらない生き方を求めて」が話題を呼んでいる。そのキーワードは「いのちの尊重」と「足るを知る」である。悲惨な原発事故が「いのちの尊重」に反することは言うまでもない。 
 ではどういう生き方が望ましいのか。「もっともっと欲しい」という貪欲な生き方が原発推進と重なっていたことを考えれば、貪欲を否定する知足(足るを知る)の生き方へと転換していくほかない。知足は貧しさを意味しない。むしろ謙虚な充足感につながる、と理解したい。反原発は日常の暮らしのあり方にも自主的な新たな選択を促すだろう。 
 
 月刊誌『世界』(岩波書店刊・2012年6月号)は「原発は仏の道とあいいれない 過ちへの反省から出発を」という見出しのインタビュー記事を載せている。語るのは河野太通(こうの・たいつう)全日本仏教会(全日仏)前会長(注)。 
(注)河野僧侶は1930年生まれ。現在、臨済宗妙心寺派管長。「3.11」当時、全日仏会長のポストにあった。著書に『床の間の禅語』(禅文化研究所)、『闘う仏教』(共著、春秋社)など多数。 
 
▽ 原発をめぐる全日本仏教会前会長との一問一答 
 
 以下、インタビュー記事の大要を紹介する。 
 
*仏教者として発言をしなければ 
 問い:臨済宗妙心寺派として昨2011年9月、脱原発を求める声明を出し、さらに全日仏会長として昨年12月、「原子力発電によらない生き方を求めて」(別項・参照)という宣言文を出した。 
 河野:私は、仏の教えの基本は生命の尊厳と人権の尊重だと言ってきた。(中略)原発事故が起きて、現在も数万人以上の人々が故郷に帰れないままでいる。そこで、まず会長談話として原発によらない生活の創造を世に問うた。それから脱原発声明や宣言を出した。誰かが言うのを待つのではなく、気づいた者が勇気を持って言わなくてはならない。正しいことだと思っていても、周囲の目をうかがって、沈黙しているうちに戦争へ流れていった、かつてとの共通点を思う。 
 
*時代の都合で変わらない生き方を求めて 
 問い:全日仏の宣言文に「誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければならない」とある。こうした考えと脱原発、あるいは過去の戦争を反省する姿勢は一体のものなのか。 
 河野:戦争中に一番、我々の尻を叩いて軍国主義を叩き込んだ先生が、(敗戦後)「これからは民主主義の時代だ」と言って、リンカーンの言葉を「ガバメント オブ ザ ピープル・・・」なんて英語で説く。その先生は戦争中、「(日本が)戦争に勝てばアメリカ人も日本語を話すようになる」なんて言っていた。それで教師を、大人を、信用できなくなった。 
 その先生はただその時代に置かれた立場、いわば都合があって、「英語なんて必要ない」と言っていたにすぎない。だから、また都合が悪くなれば、この先生はまた言うことが変わるのではないか。(中略)時代に翻弄されない生き方というものがあるのか、考えた。 
 
 もう一つ、自分にとって衝撃だったことがある。仏教は、ことさらに人命の尊重を説く宗旨である。人間のみならず、動物や一木一草に到るまでの生命の平等の自覚から出発した教えで、それを説く仏教僧が、生命を奪う鉄砲を担いで戦争に加わっていた。衝撃だった。私は生命を尊重する生き方を求めて仏の道に身を投じた。ところがその仏教団が戦争に加担し、若者たちの尻を叩いていた。私は僧になることを迷った。その迷いは長く続いた。 
 
*いまなお原発を動かそうという人間の欲望は恐ろしい 
 問い:そうした戦争への反省があっての脱原発なのですね。 
 河野:私は、原発も戦争も同じだと思う。一握りだったけれど、国策としての戦争に勇気をもって警告し反対していた人たちがいた。しかしそれが多くの声にならず、大きな流れを作れずに破局へと向かっていく。その点で原発と戦争には同じ流れがある。 
 原発の危険性はもう誰もが分かっているはずなのに、「世界最高水準の安全性」などと言って再稼働させようとしている。原発で利潤を生んできた歯車を再び回そうとしている。 原子力発電は核発電です。ウランを使って電気を作れば、あとに、すさまじい放射能を帯びた汚染物が残る。これを無害無毒にする技術を人間は持っていない。事故によって未来にわたる大量の汚染物質という負の遺産を子孫に残していく。それが分かっていながら、まだ原発を動かそうと言う。人間の欲望は恐ろしいものです。 
 
 原発をつくる金や、「安全」にするために何千億円もかけるのであれば、それを再生可能な自然エネルギーの開発と研究と普及に使った方がよい。今回の事故の反省から出発して、世界一の自然エネルギー国にする。そうなればいい。 
 
*若者よ、生命の尊厳という仏教の基本理念を腹に据えて 
 問い:脱原発という社会的な発言には勇気が必要ではないか。若い仏教者の方々はどうですか。 
 河野:生命の尊厳と人権の尊重という仏の教えの基本理念を、仏の道に入る若者はしっかりと腹に据えてほしい。何より勇気をもって発言と行動をしてほしい。戦時中だけでなく、今でも立場の都合で本当のことを言わなくなる人はいくらでもいる。 
 世間には言いたいことも言えない人はいっぱいいる。お勤めの人は大変です。上役の目もある。家族も養わないといけない。一番気にしなくていい仏教者がはっきりとものを言うべきだ。何を気にかけることがあるか、国法に触れる悪事を犯さないかぎり、住職になればずっと住職だ(笑い)。 
 生命と人権を守るために、正しいことを言うために、住職というものがあるのだと思ってほしい。 
 
*「足るを知る」質素な生活に 
 問い:原発の再稼働に反対する世論が広がっているが、一方では「江戸時代に戻るのか」とか、「真っ暗な中で生活するわけにはいかない」という政治家もいる。 
 河野:真っ暗はおどかしだが、私なんか少々暗くても大丈夫ですな。なにしろ戦争中は灯火管制で真っ暗でしたからな。むしろ、昼間から電灯を煌々(こうこう)とつけている現在のほうが異常なのだ。 
 原子力発電の恐ろしさを知らずに、電気を使い放題に使ってきた私たちがまず、反省していかなければならない。江戸時代には戻らないにしても、なんぼか始末した、質素な生活になったほうがいいのではないか。仏教で言うところの「足るを知る」です。 
 
▽ 全日仏の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」 
 
 参考までに河野太通氏が会長だった時の全日本仏教会の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」(2011年12月1日付)を紹介する。その大要は以下の通り。 
 
<宣言文> 
 東電福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散により、多くの人々が住み慣れた故郷を追われ、避難生活を強いられています。避難されている人々はやり場のない怒りと見通しのつかない不安の中、苦悩の日々を過ごされています。また、乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配し、「いのち」に対する大きな不安の中、生活を送っています。 
 広範囲に拡散した放射性物質が、日本だけでなく地球規模で自然環境、生態系に影響を与え、人間だけでなく様々な「いのち」を脅かす可能性は否めません。 
 
 日本は原爆による世界で唯一の被爆国であり、多くの人々の「いのち」が奪われ、また、一命をとりとめられた人々は現在もなお放射線による被曝で苦しんでいます。同じ過ちを人類が再び繰り返さないために、私たち日本人はその悲惨さ、苦しみをとおして「いのち」の尊さを世界の人々に伝え続けています。 
 
 全日本仏教会は仏教精神にもとづき、一人ひとりの「いのち」が尊重される社会を築くため、世界平和の実現に取り組んでまいりました。その一方で私たちはもっと快適に、もっと便利にと欲望を拡大してきました。その利便性の追求の陰には、原子力発電所立地の人々が事故による「いのち」の不安に脅かされながら日々生活を送り、さらには負の遺産となる処理不可能な放射性廃棄物を生み出し、未来に問題を残しているという現実があります。 
 だからこそ、私たちはこのような原発事故による「いのち」と平和な生活が脅かされるような事態をまねいたことを深く反省しなければなりません。 
 
 私たち全日本仏教会は「いのち」を脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電に依らない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指します。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければなりません。 
 私たちはこの問題に一人ひとりが自分の問題として向き合い、自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし、一人ひとりの「いのち」が守られる社会を築くことを宣言します。 
 
2011(平成23)年12月1日 
財団法人 全日本仏教会 
 
▽ <安原の感想> 「いのちの尊重」、「足るを知る」を実践するとき 
 
 インタビュー記事と宣言文に盛り込まれているキーワードは二つある。「いのちの尊重」と「足るを知る」である。 
 例えばインタビュー記事に「生命の尊厳と人権の尊重という仏の教えの基本理念を、仏の道に入る若者はしっかりと腹に据えてほしい。何より勇気をもって発言と行動をしてほしい。戦時中だけでなく、今でも立場の都合で本当のことを言わなくなる人はいくらでもいる」とある。 
 ここには単に「生命の尊厳」を認識するだけでなく、その認識を生かすよう「勇気をもって発言し、行動してほしい」と実践の大切さを強調している。 
 
 「足るを知る」=「知足」も重要である。宣言文に「自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くすこと」とある。 
 「生命の尊厳」と同様に「知足」(「もうこれで十分」と受け止める謙虚な充足感)も日常の実践が重要である。 
 私が提唱している仏教経済学に八つのキーワード、すなわち<いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性>がある。これらのキーワードにはインタビュー記事、宣言文に出てくる「いのちの尊重」、「知足」も含まれている。 
 
 もう一つ見逃せないのは、戦争と原発の問題である。 
 インタビュー記事に「私は、原発も戦争も同じだと思う。一握りだったけれど、国策としての戦争に勇気をもって警告し反対していた人たちがいた。しかしそれが多くの声にならず、大きな流れを作れずに破局へと向かっていく。その点で原発と戦争には同じ流れがある」と。 
 この指摘にも同感である。原発でさらに破局を拡大させないためには、5月5日以来全面停止中の原発の再稼働を許さないことである。それは戦争の悲惨な犠牲を繰り返さない決意と重なっている。 
 
*「安原和雄の仏教経済塾」より転載。 
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