2012年05月17日13時20分掲載
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文化
【核を詠う】(43)『短歌年鑑平成24年版』(角川学芸出版刊)から原発短歌を読む(3)「原爆忌六十六年目の野辺に汚染の藁をにれがむ牛ら」 山崎芳彦
前回に引き続き『短歌年鑑平成24年版』(角川学芸出版刊)に収録された作品から原発にかかわる(筆者の抄出による)短歌を読み続けるが前回にも予告したとおり、はじめに、同年鑑に掲載の吉川宏志氏の評論「当事者と少数者」の後半、「少数者」についての論述を紹介する。
「少数者」についての吉川氏の評論は、歌人・岡井隆氏が昨年4月11日付け日本経済新聞の文化欄に書いた「大震災後に一歌人の思ったこと」(岡井氏は著書『わが告白』 新潮社刊 2011年12月 に同文を転載している。筆者注)という文章に「もやもやとした違和感を持った」として、取り上げられたものである。
これは、吉川氏の書いていることとは無関係だが、岡井隆氏は歌壇における「代表的な」歌人の一人であり、皇室の歌会始の選者、宮内庁御用掛をつとめ、未来短歌会発行人、日本芸術院会員、さまざまな文学賞などを受賞、著書多数・・・、しばしば話題の歌人でもある。原子力エネルギー・原発への信頼・擁護を公言し、短歌表現もして来ている。84歳。
吉川氏は、岡井氏の日経新聞に寄せた文章から次の部分を引用している。
「原発は、人為的な事故をおこしたわけではなく、天災によって破壊されのたうちまわっているのである。原発事故(事故に傍点を付している・筆者注)などといって、まるで誰かの故みたいに魔女扱いをするのは止めるべきではないか。これは、あくまで少数意見であろうから『小声』でいうのである。」
これに対して吉川氏は「人為的な事故」ではないということについて、「事故が起きる前から幾度も危険は指摘されていたのに、対処されていなかったわけだから、岡井の感想は現実からかなり乖離しているだろう。」と論じ、また「誰かの故」の岡井氏の言についても「『誰かの故』という責任の所在が、複雑な組織に隠れて見えてこないのが、この事故の恐ろしさでもあろう」と述べ、岡井氏の論に異を唱える。しかし吉川氏は、「これについては、私もほとんど声をあげてこなかったので、岡井氏を非難する資格は無いと思っている。」と謙抑的である。
そして、吉川氏は「わたしが関心を持つのは、後段のほうである。たしかに岡井は、少数意見の立場を常に選ぶことで、言葉にインパクトを生み出してきた歌人であった。」と評しながら、岡井氏のかつての作品と、その作品について鋭く言及している。それは、1961年にポリオ・ワクチンをソ連から輸入することを忌避した日本政府に対して、母親達が抗議活動を行ったことに対して岡井氏か詠んだ
「マス・コミの作る怒りを怒りとし矢印のとおり信じてきた母ら」
という作品を取り上げ、「印象に残っている歌で、やはり現在でも挑発力を持っているように思われる。『マス・コミの作る怒りを怒りとし』と言う現象は、今でもしばしば起きている。」としながら、しかし括弧つきで、「結果的には母親の行動が国を動かし、ワクチンの輸入が決まり、患者数は激減した。岡井は『母ら』を冷ややかに見ているが、このケースでは『母ら』の怒りに正当性があったように思う。」と付け加えている。作品が現実と格闘するのは良いが、作品だからその内容の当否を検討しないでよいということではないだろうと、筆者は考えている。現実に打ち負かされた作品を、作者としてどう受け止めるか、傲慢であってはなるまい。
吉川氏の評論の本筋に戻る。原発にかかわっての論究である。
「たしかに『少数意見』を大切にすることは必要なことだ。それは私も同意する。」としながらも、吉川氏の指摘は一般論でなく、現実の本質的な把握に関わって、論を進める。
「しかし、いま問題なのは原発維持という『少数意見』の人々が、政府や財界の中枢を占めていて、どうも現在のシステムを変えようとはしていないことだ。少数に付くことが、逆に権力のシステムを肯定してしまう。多数か少数かという色分けは、無効に感じてしまうのだ。」という吉川氏の論は、説得力がある。
その上で、吉川氏は岡井氏の原子核エネルギーに対する(信仰的とさえいえる信頼・筆者)考え方について疑問、というより異議申し立てをする。
「岡井は『わたしたちは原子核エネルギーを受け入れそれとうまく付き合っていく外ない道をすでに選んでしまっている。』と言う。しかし、現在起きているのは、原発を利用しているつもりだった『わたしたち』が、逆に原発によって、存在をおびやかされているという倒立現象だ。『わたしたち』は主人として『うまくつき合っている』のか、『選んでいる』のか。逆に原子力という絶対的な存在の、奴隷になりつつあるのではないだろうか。それなら、奴隷状態から抜け出す道を考えるほうが、生きている思想というべきだろう。」
と、岡井氏の見解に真正面から対峙する。
「詩歌においては、みんなが右を向いているときに左を向く、というスタンスは、衝撃力を作り出しやすい。しかし、それが自己目的化してはまずいと思うのだ。自分の思想が世間一般と違っていても、信念にもとづいて貫き通す。そのときに初めて『少数意見』の強靭さがあらわれてくるのだろう。・・・岡井が、現在ではどう考えているのか、継続した意見を是非聞いて見たい。私は虚心に聞きたいと思っている。」と吉川氏は、問いかけている。
筆者は岡井氏の近著『わが告白』を読んだ。その第四部「運命を抱きしめて」(二〇一〇年十二月二十三日――二〇一一年七月十日)は、ほとんどが3・11大震災、とりわけ原子力エネルギー・原発擁護・維持を論ずるものである。そのために設けられた同書の最後の部といえよう。読むかぎり、岡井氏の原子力核エネルギー信仰は、科学技術への信頼の衣を纏って、変わることがあるまいと思える内容だ。抱きしめる「運命」とは何か。
「わたしは、・・・原子核エネルギー利用の道が開かれたことを、すばらしいことと思うと同時に、開くべきでなかったパンドラの函をあけてしまったなと思いハラハラする気持も抱く。しかし、もう開けてしまったのである。これは人類の運命としかいえない。わたしが、原子力エネルギー容認派なのは、この運命に耐え、なんとかこの機器をを人力で制御すべきだと思うからである。」というのである。
だが、「しかしこの点、わたしもいささか感情に流されているのかもしれない。原子核エネルギー贔屓の感情に流されて言って来たのかもしれないと反省する。」とも書く。読む者は、いささか迷う。迷いつつ、岡井氏のレトリックを警戒もする。やはり、岡井氏の「継続した意見を」「虚心に聞きたい」と言う吉川氏に従おうかと思いもする。
なお、吉川氏は日経新聞に寄せた岡井氏の文章に含まれている短歌作品を引用していないが、次のような歌を載せている。旧作一首を含む九首があるが、そのうち四首のみ記しておく。(4首目は1983年作)
原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた
原子核エネルギーへの信頼はいまもゆるがぬされどされども
原子力は魔女ではないが彼女とは疲れる(運命とたたかふみたいに)
亡ぶなら核のもとにてわれ死なむ人智はそこにくらくこごれば
吉川氏の結びの文を記して、『年鑑』の作品を読む
「震災や原発の報道が、日に日に驚くばかり少なくなっていく。しかし文学では、大方の関心が薄れてしまった後に、継続的に深く問いを突き詰めて行くことが大切だろう。短歌の場合、即応性も大事なのだが、長い時間をかけて一つのテーマを歌い続けることのほうが、もっと重い力をもつことがある。」
自選作品集(抄)
原子炉の傾くかなたの海に湧く相馬盆唄死者たちのこゑ
佐藤孝子
海山に月光とどく夜原発のメルトダウンの汚染広がる
佐波洋子
しろがねの水平線の明るさにさびしくおもふ地球の終焉
砂田暁子
汚染せる浄水場の水使ひふたり夕餉のすこやかに済む
関場 瞳
訪ねしは第二原発今更におもふ多重防護を誇りてゐきと
田村美代子
原爆忌六十六年目の野辺に汚染の藁をにれがむ牛ら
ああ遠いこどもの私が耳にした鮮烈で忘れじの言葉 ピカドン
「時下煉獄の候」とぞ詠みし邦雄歌の煉獄にこよひ星祭りせむ
汚染大地になほも涼しき緑蔭をなす老木よ善き神のごと
ひまはりは除染の力持つといふ 王者のやうに黄金(きん)のひまはり 5首 高尾文子
うなばらの大清流に原発より一すじの濁(だく)ながれ入りゆく福島に澄む秋の来(こ)よおほぞらに赤卒(せきそつ)群れて飛ぶ秋の来よ 2首 高野公彦
原発が怖いと妻も子も逃げてひとり日本に取り残されぬ四月六日は入学式のはずなのにニュージャージーより帰って来ない
2首 中地俊夫
次々のメルトダウンにただならぬ原発事故を悼み日々逝く
波 克彦
男(を)の孫のみどりご眠り―日すがらを、どうしやうもなきもの
降りつむ
あつてはならないこの喪―日常として みちのくに 炉心融けつつ
かかる世の虚仮(こけ)なるを疾(と)うに知りゐしが、この日本 この日本 この日本
原子炉よ 耐へよ となどと頼むさへ、映像に砂上の楼閣 ゆらぎ
4首 成瀬 有
起きいでて先ず見るテレビ激震と津波と原発の不慮重なりて
萩原千也
大地震津波原発放射能 神国日本に神風吹かず
前川 博
放射能の雨降り子供ら駕籠の鳥かごの中から折鶴放つ
松谷東一郎
放射能汚染区域と映像にうつるわが郷さくら咲き初む
三浦 武
首都圏の電気をつくってゐたのかと事故起きて知る福島原発
この雨に毒はないかと母に問ふ小学生よ濡れずに歩け
2首 三浦槙子
有史以来いくたびの津波紛れもなき事実を安全神話に隠す
三十メートルの津波に曝す人類の「安全」の文字地球は知らぬ
2首 御供平佶
能のなき首相つづきて三度目の原爆に遭う民をかなしむ
緑川浩明
核分裂の制御ままならぬ原発と識りいてなおも想定外と
山本 司
次回も、『短歌年鑑』の作品を読み続ける。 (つづく)
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