2012年07月18日08時30分掲載
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アジア
【イサーンの村から】(19)百姓の技と心(下) なんでも手作業 スピード、長続き、それにおしゃべりがつく百姓技 森本薫子
「農民に必要なもの。それは、技と精神力。」
私も日本で暮らしていたころは、料理は好きでも保存食や発酵食を作ろうと思ったことはなかった。でもタイ生活の時間の進みの中では、肉が大量にあれば、薄切りにして塩と胡椒をもみこみ干し肉に。魚は開いて塩を揉みこみ干し魚に。トマトが大量に収獲できたらソースに。発酵ものなら、ヨーグルトは自家製、もち米からドブロクを作り、天然酵母も自分で仕込んで生地をひたすらこねてパンを焼いたり、魚の腹に塩、にんにく、お米を入れてプラーソム(発酵魚)を作ったりと、そんなことをするのが自然に生活の一部になっていった。グリーンカレーのペースト自体を作り、ココナツを割って果肉を削って絞ってミルクをとるなんて、日本では思いつきもしなかったことだ。
イサーンのお母さんたちにはかなわないにしても、技もいつの間にか身についているもので、炭に火をつけるのも、最初はコツがつかめず何度もやり直していたのが、今では一瞬にしてつけられるようになった。魚や鶏をさばくのも、生き物は何でも内臓を出して、パーツに分けて、と基本は同じ。おそるおそる内臓を手でえぐり出していたのはもう遠い昔。今は、どれだけ傷つけずに取り出せるかと内臓をつかむ手がやさしくなるほどに。
といっても、毎回毎回全部を一から用意するわけではない。買ってきた肉も食べるし、できあいのペーストやココナツミルクを使ってタイカレーを作ることもある。なんて簡単・・・!と、子供が二人できてからは、その簡単さに対する感動はひとしおだけれど、味においては大きく妥協しなければならないのだ。本当の美味しさがわからなくなったらおしまいだな・・と肝に銘じつつ。
食べ物だけでなく、イサーンでは何をするにも手作業が多く、みんなそれを楽しむことを知っている。手を動かしながら、口も止まることなくおしゃべりが続くのは女性が得意。ただ一人で黙々と作業するときは、瞑想と同じ精神状態になる。
今の時代、頭の中でくるくると考え、創造的なことを次から次へとこなすせる人が「できる人」扱いされる。同じ作業を内職のようにコツコツを続けることへは評価が低い。
その成果物が技術性の高いものであると「職人」として尊敬されるが、そうでもない場合、「誰にでもできる仕事」と片付けられてしまう。果たしてそうだろうか? たとえ誰でもできる技術のものであっても、その作業を長時間続けるのはかなりの精神力が必要だ。
稲刈りをしていて思う。私も何年か稲刈りをしているので、コツも覚え、そこそこのスピードでできるようになった。倒れた稲を刈るのは技術がいるのでスムーズにはいかないが、まっすぐ立っていればかなりのスピードが出せる。最高瞬間速度だけ測れば、イサーン人にも負けないのではないかとちょっと自信がある。
・・が、その速度、本当に瞬間なのだ。10分続けばいい方だ。集中力が落ちてきて、だんだんとペースが遅くなる。30分後には、持続力重視のスピードになっている。しかし、周りのベテランさんたち「イサーンの百姓」の皆さんを見ると・・ スピードが落ちない! 時々おしゃべりをしているのにも関わらず、手の動きは変わらない。スピードと持続力の両方を備えているのだ。もちろんそのくらいやらないと、あの広大な田んぼの稲刈りは永遠に終わらない。農民のすごさは、技術だけではなく精神力にある。職人の精神力と言えようか。これはとてもとても「誰でもできる仕事」ではない。
「自分はやらない。でもやろうと思えばできる」、「今は手放せないけれど、なくてもどうにかやっていける。」このセリフが言い訳になっていることがある。重要なのは、「やろうと思えばできる」ではなく、じゃあ、「やるのかやらないのか」なのではないか。やらないのならできないと同じ。やらなければならない場面になったらやれると高をくくっていると、実際にその場面になった時でも、技術的にできなくなっていたり、面倒で「やる気」を出せなくなっていたりすることがある。
機械を使わずに米つくりをしなければならない状況になった時に、技術面は置いておくにしても、田植え、稲刈り、脱穀を、何週間も朝から晩まで自分の手のみでやり続ける精神力がある日本人は、今の時代どのくらいいるだろう。
一味唐辛子を作る作業。タイ料理は唐辛子の消費量が半端ではないので、常に使えるように、生の唐辛子を日光で乾かし石臼でつぶして粒状にして保存する。私が「お義母さん、面倒だからミキサーでつぶしちゃおうよ?」と言うと、「石臼でつぶした方が美味しいのよ」とお義母さん。予想できた答えだけれど・・・。これだけの量の唐辛子を石臼で潰すのか・・とうんざりする。子供に手がかからなくなった時、私はミキサーを使わず石臼で潰せるのだろうか。腕がコツを覚えているか、やる気を出せるか。時間がないだなんだかんだと言い訳して、ミキサーを使ってしまいそうな・・。そしていつの間にか、石臼でつぶすということすら頭に浮かばなくなるのではないか。
「まだ子供に手がかかるから」と言っている時点で既に言い訳なのだ。せめて、自分が「言い訳している」ことだけは、素直に認めておこう。
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