2012年08月01日00時06分掲載
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社会
【運動の現場で考えたこと】(3)「惨事便乗型資本主義」と、未来に対する大虐殺 園良太
「3.11」の責任追及を逃れて復活した権力者・資本家は、「3.11」を従来の戦争と資本主義の推進にも利用し始めました。東電は誰も逮捕されずに公的資金で生き延びて、荒れ狂う福島原発の収束作業で作業員を使い捨てにし続けています。収束作業も除染作業も、今も8割以上を他の仕事を失わされた福島出身の人々が行っています。それはゼネコンや東電や原発製造メーカーの東芝、日立などの子会社の仕事です。つまり全てを失った被害者が被害の尻拭いを被曝しながらやらされ、加害者は何も失わずに儲け続けているというあまりにひどい事態が進んでいます。
そして国政では、「災害時に首相に権限を集中させる緊急事態条項が必要だ」を突破口に憲法9条改悪を目指しています。財界主導の「復興特区」は漁業や農業の大企業への開放が主眼で、新自由主義政策で地場産業や福祉・医療を崩壊させられた東北をさらに食い物にすることです。今やこうした「惨事便乗型資本主義」(ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』より)まで来てしまいました。それはハイチやインドネシアや米国のハリケーンに襲われた地域など、世界中の被災地でやられている事です。権力と資本主義の暴力は福島と被災地に集中しているため、私たちは何よりもそことの連帯が必要です。
これらは「復興」を口実にすれば全て正当化されています。そのためにも権力者・資本家は、私たちの被災地と福島への連帯意識を除染ビジネスや「復興特区」の推進にすり替えることを常に行ってきます。再稼働反対運動が全国的に盛り上がっていますが、福島は今も「除染・帰還」方針が支配的にさせられています。そして盛り上がる前の今年の「3.11」一年目の時期は、メディア上でも多くの人も、事故直後と同じく被災地への祈りと追悼ムードに覆われ、原発反対が後ろに退いていたと思います。3.11直後のように「がんばろう日本」「絆」が一般の中でも連呼されました。それを政府は天皇参加の「国家追悼式」で完成させました。さらに東北の農業と漁業を大企業に儲けさせるために差し出す自由化が「復興特区」と名付けられ、「復興庁」により推進されるという壮大な詐欺を行ないました。「惨事便乗型資本主義」はこの時期大きく持てはやされたのです。そしてデモに出る他地域の私たちも、放射能がある日常にはだんだん馴らされてきています。今でも無関心な人や、無理やり考えないようにして、避難やデモ参加をしない人はたくさんいます。
これは私たちの側にも、国家の追悼・自粛・復興の翼賛体制を内面化する可能性が常にあるということです。その結果今運動が盛り上がっていても、それで沈静化してしまう可能性が常にあるということです。原発事故による放射能は人体や環境全ての「未来に対する大虐殺」であり、この事故は史上初の継続する大事故であり、政府の対応も史上最悪レベルです。それとともにこのまま動き出さない人が多数なら、それこそ私たち自身が私たちの未来を虐殺するという意味で、真に人類史上初のことと捉えるべきです。
もちろん人は生まれ育った場所には愛着があり、逃げるか残るかは当人が決めることです。ただ被曝により、子どもや若者ほど将来がんや白血病などになる可能性が高いことは明白なのに、福島は強い圧力で避難が抑止されています。若者が福島に残ることが復興と美化され、東京メディアでは中高年の住民が「戻れてホッとした」と話した、という取り上げ方ばかりされるのです。海でも大地でも新たな生産が不可能になったのに、国も電力会社も原発立地自治体も今ある仕事を守るために再稼働を認めていきます。そして4号機を筆頭に原発の崩壊や被曝労働が全社会から必要になることが現実的なのに、原発の実態が全て隠され続けています。そして実際に全原発の廃炉を決めてしまうと、今まで隠されてきた廃炉作業や使用済み核燃料最終処分などの膨大なコストと直面するため、大飯ももんじゅも六か所も動かそうとして問題を先送りし続けています。これはいわば世界一少子高齢化した日本で、権力も私たちも「現在」のために「未来」を犠牲にするから全てが無策になるのです。そして日本特有の強い同調圧力と自己規制が働いています。この結果、今の自分が未来の自分と次の世代を殺しているのです。
それでもこの巨大な危機は全てを隠しきることも無視することもできないため、福島も全国も無理やり自分で自分をだまし続けるしかなくなっていく。民主党の仙石が「再稼働しないと集団自殺」などと事実と真逆の発言をしたのが象徴です。それは確実に人の精神をボロボロにしていき、うつ、神経症、統合失調の状態が健康被害や自殺とともに激増していくでしょう。それ自体も隠されながら。こうして外の世界と内なる世界の両方を自ら完全崩壊させることが空前の事態なのです。こうして見た時に、官邸前の主催者が参加者を警察目線で規制してしまうのも、「普通の人」を強調しすぎるのも、福島と全国を抑え込む権力目線や同調圧力と同根になってしまうとわかるでしょう。
『原発いらない福島の女たち』の佐藤幸子さんは、チェルノブイリ事故のときに、福島原発で何かあれば子どもを避難させると決めていたといいます。“未来へつなぐ命が、放射能で途絶えるかもしれないっていう恐怖に駆られたんですね。私には土地への執着心ももちろんあります。けれども、それによって未来の子どもたちに何らかの影響を及ぼすということは、やってはいけないことだと。過去の先祖の命があって初めて自分があると同時に、自分の命、子どもの命がきちんとあって初めて未来へつないでいく命がある。どっちを取るかといったら、先祖代々の土地を捨ててでも、私は未来の子どもたちを守りたいっていうふうに、もうその時に決めてたというのがあります。……私は母のお墓参りに行きました。そこで私は、原発をすべて止めるまでは二度とお墓参りには来ませんと、母のお墓と、その全部のお墓に墓参りに行って。「帰ってこないことを許して下さい」と言ったんです”(『百人百話 第一集 福島に残る 福島を離れる それぞれの選択』岩上安身、三一書房)
人が運動を始めるとは、このように既存の秩序や日常からジャンプすることです。私たちには未来への意思を持ちながら既存の秩序を変えていくことが必要です。「秩序維持」という権力のものの見方を内面化してしまうのではなく、権力から自分をひきはがし、奴隷の鎖を引きちぎらなければいけません。私たち民衆の多様性を認め合い、連帯し、その特徴を最大限出し合わなければいけなません。そうして初めて「未来」を取り戻すことができるのです。
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