2012年09月21日00時08分掲載
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核・原子力
【たんぽぽ舎発】原子力産業協会の「恥ずかしい」文書を批判する 山崎久隆
政府による「革新的エネルギー・環境戦略」について、原子力産業協会が反対意見を発表している。政府方針も、合格点にはほど遠いと言わざるを得ないが、しかし原発をなくすことは方針化していることは評価に値しよう。それに対するいくつかの反論は、さらに驚くほど旧態依然とした原発推進論と安全神話に依存した文書になっている。書いている人間は恥ずかしくないのかと言いたいところだ。各電力会社などからも、この種の「恥ずかしい」文書が次々に発表されるのだろう。代表格として「原子力産業協会」の反対意見に逐一反論してみよう。
http://www.jaif.or.jp/ja/news/2012/President_column_05%2820120914%29.pdf
(以下、★│ではじまる行は、上記文書からの引用)
★「革新的エネルギー・環境戦略についての意見 平成24年9月14日」
一般社団法人 日本原子力産業協会 理事長 服部 拓也
まず、この団体の理事長に対して、言っておきたいことがある。
理事長の「服部拓也」という名前を覚えている人も多くいるだろう。彼は2006年に東電副社長を最後に退職し、原子力産業協会に「天下り」した。東電時代には、02年まで福島第一原発所長を2年間つとめている。今回の原発震災に少なからぬ責任がある。
1966年に建設(造成工事)が始まった福島第一原発は、その後2011年まで、建設当時のままに非常用ディーゼル発電機がタービン建屋に配置されたままだった。作った当時にGE側と交渉に当たった豊田正敏副社長は、地下に発電機があったことを「知らなかった」などとしつつも欠陥と認めている。
その時代を含めて欠陥を解消する機会はあったはずだ。また、服部氏は福島第二原発三号機再循環ポンプ損傷事故の時には既に原子力技術部長であった。そのため東京電力株主代表訴訟において、服部氏にも賠償請求を行っている。被告の一人である。
★ 本日政府エネルギー・環境会議から「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する」ことを骨子とした革新的エネルギー・環境戦略が示された。
政府発表にある「原発の稼働をゼロにすること」そのものは、もともと2030年の原発比率について国民的議論を進めるとした、パブリックコメント等を含む意見聴取の結果に基づくものであり、勝手に政府が作文をしたわけではない。それに至る「原発震災」を引き起こすような欠陥原発を作ってきた責任について原子力産業協会は一言も発言は無いのか。その不遜な態度に驚くほかはない。何処の世界の団体かと思う。
★ エネルギーの安定供給が国民の安全と産業経済活動の発展に不可欠であり、国家の根幹を支える基盤であることを考えると、原子力という選択肢を手放すことは将来国民に過大な経済的負担を強いるだけでなく、わが国の先進国としての国際社会に対する責任を放棄するものであり、到底看過できるものではない。わが国は先進国の一員として、世界の持続的発展のために、今後も原子力技術を維持・発展させていく責任がある。
エネルギーの安定供給と原子力発電の推進には何の関係も無い。突然根拠をすり替える方法は、これまでの推進派の手法そのもの。原子力(核分裂反応)は、そのままではエネルギー源にならない。原子力が変換出来る「エネルギー」は電気に限られ、それも変換システム(原発だけではなく鉱山から高レベル廃棄物に至る一連の核燃料サイクル施設全てである)に大変なコストがかかる。石油や天然ガスとは違う。エネルギー安定供給とは、一次エネルギーのそれであって、電気はその一部に過ぎない。一次エネルギーの需給バランス全体を考えれば、原発をなくしても何の問題も無い。経済的負担は、59基(廃炉原発を含む)の原発を作り続けてきた以上、原発が稼働してもしなくても莫大な国民負担となることは明らかだ。いまさら始まった話では無いのに、この文脈で持ち出すのは牽強付会もいいところ。
世界に対する責任など、もはや原発事故を起こしたことで重大な責任を負ってしまった。このうえ原発震災や事故を繰り返せば、地球被曝を繰り返す、とんでもない環境破壊国として長く歴史に刻まれるだろう。世界の持続的発展のためにも、原発をなくすことは、まず第一の責任の取り方である。
★ 政府は、エネルギー問題が国家のあり様を決定づける国家戦略であることをしっかりと認識すべきであり、将来に向けての選択肢を狭めることは厳に慎むべきである。
従って、以下の点に配慮し、グローバルかつ長期的視点に立って、現実的な対応を行うことを強く求めたい。
繰り返すが、エネルギー問題とは、一次エネルギー全体を言うのであって全体の1割程度の原発のことを言うのでは無い。車やトラックや船を原子力で駆動出来ないことは明白。火力の効率を15%上げる(45%を60%に)だけで、現在の全原発を廃炉にし、その分を火力でまかなったとしても燃やす燃料の量は変わらないことになる。そして高効率火力は日本のお家芸だ。また、世
界のためにも原子力程度のエネルギー消費量は、そもそも削減すべき対象である。実際に電力消費量は今回の原発震災が無くても、ここ10年で見ればピーク時は相当程度下がっている。
資源エネルギー庁も今年4月の最終エネルギー消費推計で省エネ対策の強化による1割ないし2割減のシナリオを出している。
★(1)東京電力福島第一原子力発電所事故を起こした当事国として、本事故の教訓を共有し、世界の原発の安全性向上に貢献することはわが国の責務である。
事故を起こした当事国であるからこそ、原子力に変わるエネルギーまたは大幅な省エネルギーを提案すべきだ。
また、事故原因を究明し、他国の原発でも地震や津波、又はそれ以外の原因により同様の災害を引き起こすことを警告すべき責務がある。少なくても今の原発は全部危険であり、このまま稼働させ続ければ福島第一の再現となる。
さらに事故後の対策(冷温停止操作)では、運転員や下請けを含む発電所職員では全く対応できないこともはっきりした。チェルノブイリ原発事故は最初に炉心が吹き飛んでしまったため、そのことがはっきりとは分からなかった。
福島第一原発の教訓の一つは、事故後のバックアップ要員を早期に投入するような緊急体制が存在しなかったこと、市民を守る防災体制が不十分であったうえ、全く機能しなかったことなどたくさんある。そういう経験こそ発信すべきだ。周辺80キロの全住民に責任が持てるのかということだ。
★(2)人材を確保するなど原子力に関する技術力を維持し、使用済み燃料の管理、高レベル放射性廃棄物の処分、及び廃止措置を安全に進めることは、これまで原子力利用を進めてきた先進国として、国際社会に対する責任である。
この項については、「高レベルの処分」を除けば、「安全」に関しての責任があるのは当然のことであり、それを達成するためにも、原発を廃止することを決定し、技術開発の方向性を絞って、そこに今後希薄となる人材を投入する必要がある。
これまで日本の原子力産業界は希薄になりつつある技術力を持つ人材を、核燃料サイクル全体に拡散させてしまったため、一つ一つの現場ではとても「人材の確保」どころではない状態を作ってきた。
原子力産業界は、この点についても相当の責任がある。
1999年のJCO臨界被曝事故や2004年の美浜原発3号機給水配管破断事故は、原子力産業労働者を多数死傷させる事故として歴史に残っている。これらは安全よりも利益を追求してきた原子力産業が引き起こした事故と言っても過言ではない。それに対する真摯な反省と再発防止に努める姿勢があったならば、今回の原発震災も違った結果になったかもしれない。福島原発震災の責任は東電にだけ負わせるのは公平ではない。元請けから下請けに掛けての全
メーカーに、それぞれの責任があるはずだ。今回のようなシビアアクシデントに対する準備も対策も無かったのは、原子力産業側が、安全神話を拡大再生産し続けてきたからではないのか。もはや産業側には安全確保ができる人材を輩出する能力はないと言わざるを得ない。
★(3)事故後も世界の多くの国々は原子力推進の方針は変えていない。新たに原子力発電の導入計画を進めている国々から、わが国からの技術支援に強い期待が寄せられているが、これらの要請に応えていくことは原子力先進国としての責務である。
世界で原発を建設し稼働させている国は30カ国しか無い。さらにドイツやスウェーデンは今後撤退を決めている。世界全部を見れば原発推進などごく少数の国に止まっているのが現実である。最大の原発国である米国でも、原子力規正委員会が原発新設のライセンスを凍結した。原発建設がラッシュだったのは1970から80年代にかけてであり、これら原発が今後急速に老朽化して止まっていく。それに見合うだけの新増設さえ計画されていない。一次エネル
ギーにしめる原子力の割合も長期低下傾向が続いており、この傾向が逆転することはもうない。中東諸国の一部が仮に原発建設に踏み切ったとしても、その国の電力需要から鑑みて数機、数百万キロワットにとどまる。全世界の発電所は依然として石炭が最も多く、これからは天然ガスが急速に延びることは最早自明のことだ。今頃こんなことを書くのは、どんな時代錯誤なのだろうか。
日本の技術支援は、原発の安全な管理技術の開発、放射性廃棄物の安定化技術の開発などが期待されるだけになろう。それよりも高効率火力や新エネルギーシステムの開発に期待が集まることになるだろう。
★(4)原子力発電の開発推進は省エネルギーの推進や再生可能エネルギーの開発などとともに地球温暖化対策の柱である。わが国が本事故の教訓を反映し、安全性の高い原子力発電所の普及に努め、世界の地球温暖化防止対策に貢献することは先進国としての責務である。
気候変動を引き起こしている理由の一つが人間のエネルギー浪費だろう。原発をいくら増やしても対策になどならないばかりか、膨大な廃熱による地球暖め装置とかしている原発が、どうして「温暖化対策」になどなろうか。むしろ原発は省エネルギーに逆行してきた歴史がある。原発は昼間ピークに合わせて設備を作ると、夜間のボトムに対応出来ないため、24時間電気を使い続けることを要求したシステムである。そのため揚水発電など自然を破壊し、莫大な
費用が掛かる割にはエネルギー供給には役に立たないものさえ作る結果となっている。
日本が貢献すべきは、これからエネルギー消費量が増大する国々に、廉価で効率的な設備を移転することで貢献することだ。全世界の石炭火力を高効率にするだけで、廃熱や煤煙や窒素酸化物、硫黄酸化物がどれほど減らせるか、それが貢献である。原子力産業協会は石炭火力を全部原発に置き換えるとでも言うのだろうか。発電設備別の比率さえご存じないのか。
★(5)わが国は原子力開発の当初から平和利用に徹し、核不拡散に関する国際規範を厳格に遵守してきた歴史がある。核拡散の防止と将来の世界の核廃絶に向けて、わが国が核不拡散体制の維持・発展に貢献することが国際社会から強く求められている。
日本が潜在的核武装国であることは、今では常識だ。開発段階から平和利用になど徹していない。歴史的事実をねじ曲げている。「核不拡散の優等生」と呼ばれるほどになったのは、そうしなければ再処理も、ウラン濃縮も、高速増殖炉も日本で作れなかったからだ。手段と目的が全く理解されていない。今日日本が国際社会から求められているのは、「もんじゅ」など最早開発に行き詰まった高純度プルトニウム精製設備の解体撤去である。そして使う当ても無い高純度プルトニウム239を始め、大量にため込んだ核分裂性物質の国際管理の先頭に立つことだ。それがない限り、日本の核開発疑惑が解けることは無い。
★(6)わが国の安全保障の観点から、日米同盟はその基軸となるものである。米国はわが国が今後も原子力技術を維持し、両国がその開発に協力していくことが、東アジア地域の安定と日米関係の維持発展のために不│可欠と考えていることを考慮すべき。
先の(5)に書かれていることが、ここであっさりと自ら否定しているようである。日本が核開発をしてきたのは、安全保障に資するためであるという論理は、石破茂などがいうように「核兵器開発の技術を保持していることが核抑止力」などとする論理と同一であり、核不拡散への重大な挑戦である。
それで済むのであれば、何処の国であってもウラン濃縮技術や再処理技術を持つことに何の問題も無いはずだし、核武装宣言さえしなければ核兵器一歩手前まで「国家安全保障のため」可能ということになる。
また、日本は日米安保体制下で米国の核の傘に「依存」している。その上で「日米の原子力技術の開発協力」を、特に「東アジア地域の安定」と「国家安全保障」の上で「日米同盟の基軸」のもと進めるとしたら、日本は米国の核戦力の維持発展、核兵器開発(高度化)を支援することになる。「核廃絶の国」で行われる「核戦力の高度化技術の開発」だ。誰が日本のは無しを真面目に聞くようになるだろうか。
★(7)原子力技術は、エネルギー面のみならず医療、工業、農業など放射線利用の面で幅広く応用され、人類の安全と健康維持に不可欠なものとなっている。わが国は放射線利用の面でも高い技術力を有しており、原子力発電を止めることになれば、これらの基盤が弱体化し、健康で安全な社会生活の維持確保に支障が出ることになる。
放射線利用技術は原発がなくても何ら問題なく可能である。世界に原発を持つ国は30カ国。ではその他の国では放射線利用ができないかと言えばそんなことはない。さらに、一部の放射線利用は問題を抱えている。日本は医療被曝において世界で最も多く、これが、がん発生率を押し上げているという研究報告(英国の医学雑誌ランセットの論文)などもある。この際、本当に必要な放射線利用なのかを見直す機会にすべきだろう。
以上のように「原発を止めたら大変」といった主張の論点は、コインの裏表の関係であったり、仮定に仮定を重ねた推論であったり、なくすべき核武装への疑惑と直結するものばかりだ。
これらが無くなるのであれば、原発をなくす(原子力災害の危険性をなくす)ことが、他にも良い影響を与えると歓迎すべきことでは無いか。
そもそも、16万人もの人々が未だに故郷に帰れず、5年、10年、あるいはもっと長い期間居住も生産も不可能になった土地を広大に出現させた原発震災は、日本でも世界でも二度と再び繰り返してはならない。
従って議論の順番が間違っている。今後原発は動かすことができない、原発ゼロが出発点であって、その後の日本や世界の原子力問題をどうとらえるか、そのような問題である。これから原発を動かすとか、増して新増設するなどといった論の立て方自体が間違っているのだ。
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