2012年11月30日09時48分掲載
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地域
千葉・三里塚の太陽光発電完成・・・の記事を読んで思う 山崎芳彦
「鶏舎の屋根を発電所に 千葉・三里塚の有機農業グループが完成」(大野和興さん、11月24日付掲載)を読んで、思うことが多かった。そのことを記したい。
◇脱原発を実現する力はどこにあるのか
衆院選が迫って、各政党間の「原発・エネルギー政策」をめぐる議論がいかにも盛んに、しかしほとんど空疎な空中戦ともいえる状況を呈している中で、福島・三春の農民の太陽光発電が稼働し、そして千葉・三里塚の有機農業グループによる太陽光発電が完成し動き出している。
私は、今回の総選挙の最大の争点の一つは「無条件に」原発ゼロの社会をめざすことを大前提にして、そのための課題を明確にし、実行して行く志の有無だと考えている。原発ゼロのためのあれこれの条件を論ずる政党、政治家グループ、政治家は信じない。
そして、それ以上に、脱原発を実現するために具体的に動いている人々とともに、自らがその力を出せる、実践できる、そのことを明らかに示せる候補者でなければ信じない。
私たちは、脱原発と言うとき、だれかに頼んでその条件を整えてもらおうと考えない。私たちが原子力のくびきを自ら取り払い、ついうかうかと乗ってしまった原子力号から「降りる」のである。
誰が原子力文明を乗り越えた社会を作るのか、大野さんの記事が紹介している農事組合法人ワンパックの「陽鶏発電所―ふさのくに総州」については記事を読めば、そのすばらしさは明瞭だが、完成に至る経過を想像し、どれだけの人々の確かな思いと行動によって成し遂げられた成果であるのかを思えば、ここにこそ(福島・三春も同じだが)、そしておそらくは全国のどこかで動き出しているであろう人々の取り組みにこそ、新たな脱原子力エネルギー社会に向かう力の源があると、私は思った。
大野さんの記事の中に紹介されている、ワンパック養鶏管理者の樋ヶ守男さんが、完成披露のパネル展示に書いた文章は、あの三里塚で農業を続けている人々の言葉だから、その農業と結びついた消費者、さらに発電所施設作りを支援した自然エネルギー事業協同組合レクスタの人たち、そしてその共同をつなぐために働いた人々の思いと実践の中から生れたまことの声であると思う。一部だけ引用させていただく。
「どの土地も人・自然が分かちがたくある国で、原発を運転し、大量の放射性廃棄物を生み出し続けること自体がとうてい無理なのだ。原発はどこかの土地や人々を切り棄てる、棄民政策としてしか成り立たない。」
「でも、私たちが自分たちの使うエネルギーを国や大企業に任せっぱなしでいるかぎり、福島の悲劇は、またどこかで起こる。少しでも自分たちで持続可能なエネルギーを作り出し、エネルギーを管理できる力をつけて、原発の電気に頼らない世の中を作りたい。農業、農村や地域には太陽以外にも風や水、バイオマスなど、さまざまなエネルギーの元と可能性がある。」
国民主権とは、選挙の投票権ではない。自らが社会を作り上げる権利であり、その行動であろう。言葉は、具体的に行なわれて、力になる。
◇三里塚と高木仁三郎さん
大野さんの記事を読みながら、高木仁三郎さんの『市民科学者として生きる』(岩波新書1999年刊)に三里塚とのかかわりについて書かれている「三里塚との出会い」の節(第5章 三里塚と宮澤賢治)を思っていた。成田空港建設に対する地元農民の反対闘争に接したときのことを回想して書かれた高木さんの文章は、多くの人に読まれ、高木さんの「市民科学者として生きる」志と立場のきわめて重要なステップとなったことは知られていることと思うが、私は大野さんの記事を読み、改めて読み返した。
率直で、虚飾を排した高木さんの文章は、どの著書でも特徴的だが、読み返しながら改めて「文は人だ」と思った。
「私たちの参加の仕方は、支援とは名ばかりで、実際にはそこで何が起こっているかを見、農民の声をじかに聞いて見たいという性格のものだったろう。今でも、きわめて鮮明に覚えている風景がある。」
「・・・土地を強制収用しようとする空港公団側は、大量の警察力を動員して反対派の学生を排除しつつ、ブルドーザーで土地を切り崩し、立木を押し倒していた。その前方に残る木に体を鎖でしばって抵抗する農民、さらに、地下壕にこもって抵抗する農民の姿があった。」
「・・・かあーっと巨大な口をあけて迫るブルドーザーは国家権力そのもので、その下に自分の耕す土地にしがみつこうとする農民がいる。自分はどっちの側にいるのだろうか。心情的には農民の側にいるが、実際には明らかに自分は巨大システムの側にポストを占めているのではないか。」
「実際に空港に反対する農民と話してみて、彼らの志の高さとでもいうべきことに感動した。農民たちの言うことは単純明快だった。
「ここは古村で俺たち百姓は、先祖伝来田を耕し野菜を作って来た。その土地を俺たちに何のことわりもなく取り上げる権利が誰にあるのか。」「俺らは、戦後に開拓で入り、木の根っこだらけの土地を食うや食わずで、ここまでの土地にした。やっと、メシが食えるようになったら、空港計画が舞いおりて来た。俺たちに一言の相談も、あいさつすらなかった。国で決めた計画だというが、俺たちの意志を無視して国家計画が決まる。そんな道理があるべか。高木さん。」
高木さんはその農民の話と対照的に、大学の教授たちなどの雑談的な懇談の場での会話の次元の低さ、話が三里塚のことに及ぶと「過激派セクトが煽っている」「農民は土地の値をつり上げようとしている」「日本の発展には空港が必要だから、地域エゴは駄目だ」などと言う彼らが三里塚についての本を一冊たりとも読んでいないで、「あたり前のように国家の立場に自己を帰属させていた」と書いている。そして
「ここにおいて、私は自分のとるべき立場がはっきりしてきたように思った。・・・鎖で体を縛ったり、地下壕に籠ったりする農民の抵抗は、異議申し立てとしては正しい。そこには大義がある。しかしこれを永遠に持続していくことはできないのではないか。これを持続させ、農民が百姓として生き続けられるようにするためには、農民が大地の上に生き続けることが、緑野を破壊して空港をつくることより大事なことを、大義として理性的にも社会に認めさせる必要があるだろう。それこそ、自分のような立場の人間の行う作業なのではないか。」
高木さんの科学者としての立場、方向を決める大きな契機に三里塚の農民の闘いとの出会いがあった。
その三里塚に土地を借り、堆肥と無農薬の有機農業で、高木さんは米作りをしながら、エコロジズムに傾斜していく原点に立っていた。
この三里塚で有機農業を営む農事組合法人ワンパックが、太陽光発電の拠点が完成し、動いている。私は、三里塚と高木さんのかかわりを、高木さんの著書で知っているだけだが、三里塚でたたかった人々、高木さんたちに尊敬の念を新たにした。
◇私の少しの体験について
私は、三里塚闘争の現地に立ったことがないのだが、国際空港建設計画が明らかになった当初、その建設用地の有力候補地に、茨城の稲敷台地(現在の阿見町を含む一帯)が挙げられた当時、反対運動に参加してその地域の農民を戸別に訪問し交流した経験がある。
その地域の農民の多くは、日本の中国侵略時代に、満蒙開拓のために中国にわたった長野県出身の人びとが多く、敗戦後苦難の帰国をして、故郷に帰っても耕す農地がなく、山林だった茨城の稲敷台地に土地を得て、開墾し、土を作り、農地に育てた人々だった。三里塚の開拓農民と同じ苦労を重ね、ようやく農業地域を作り出しその実りを得ることができるようになるまでの経験と、その土地を奪われようとしていることへの怒りを、まだ20歳代前半で農業経験のない学生上がりの私は聞いてまわり、学生時代には何も知らなかった多くのことを学ばされた。
六十年安保闘争のさなかの学生時代を過ごし、学生運動に入学した年から加わり、デモと労働組合のストライキ支援に明け暮れ、それが祟って卒業時には、志望していた教職の道を断たれたその直後の頃であったが、ここでの経験は貴重であったと今も思う。その後、千葉・富里が空港用地の候補に挙げられた時も、落花生産地として有名な同地に通った経験もあった。
しかし、三里塚のたたかいに参加しなかったのは、その頃の私があるレッテル貼りを恣意的に行なう政治組織の「囚われ人」になり、三里塚闘争の真実を把握し得なかったためであったと思う。もちろん、私の責任であり、稲敷台地や富里での体験を自らの中に封じ込めたことは、今にしても痛みとして残る。
これも、大野さんの記事を読みながら考えたことの一つである。
◇反原発・脱原発・卒原発・・・
高木さんの前記の著書に「世の中には反原発と脱原発という言葉の違いにすごく拘泥する人がいるが、私は概してその種の言葉遣いにはこだわらない。私の思想は基本的には原発反対であるが、現実にここまで原発依存型の社会が出来上がっていることを考えるなら、反原発の基盤のうえに、一刻も早くその社会を脱しようとする脱原発という発想と運動が出て来るのは当然のことであって、この二つの言葉を対立的に考えることはない。」と書いている。
脱原発という言葉は、チェルノブィリ以降ドイツで使われるようになったドイツ語(Aussteg)に由来するもので、日常用語では電車やバスなどから降りることであるとして「今我々の乗っている原発社会という乗り物から降りようという表現で、ただ反原発というより、現実社会ではむしろより積極的な意味をもつかも知れない。」ともいっている。
◇高木さん語録(『市民科学者として生きる』から筆者の引用)
▼「住民の志」とでも言うべきものに最初に出会い感動を受けたのは三里塚であったことは前に述べた。反原発運動にかかわるようになってから、あらためて私は日本全国で高い志を持った人々に多く出会い、彼らから学ぶことによって、頭の中だけでなく、体の芯から反原発となった。・・・人間の基本的な生き方そのものに関わっているのである。
▼(原子力維持推進勢力―筆者)の背景には、すべて「国益のため」という大義(と称するもの)がある。非国民という言葉も使われたが、頻繁に使われたのが“地域エゴ”という言葉だ・・・この議論の仕方は私たちが半世紀前の戦争の体験に学んだはずのものをすっかり転倒させており、個人の人権や思想に基づいて国家があるのではなく、国家のもとに個人があるという発想だ。私が感銘を受けたのは、私より年上のいわば戦中世代の人たちの間に、このような国家主義に反対し、一人でも断固として土地を売らず、農民が大地の上に、あるいは漁民が海に生きる権利を主張し続ける人びとが存在したことだ。しかも、彼らは、実によく勉強していた。彼らを「地域エゴ」となじる、東京から来たなまじの「専門家」などに比べたら、原発の構造からあるべきエネルギー政策についてまで、よく学び、立派な見識を持っていたのである。
▼私が批判してきた企業や大学における科学者・技術者の態度も主要には「今さら自分が何か言っても世の中が変るわけではない」と言う諦めが支配している。多くの専門家の中に、私はあきらめを超えた、一種のニヒリズムを見た。「人類がこのまま欲望を増大すれば、破滅するしかないだろう。恐竜も絶滅したのだし、人類も絶滅すればよい。これには歯止めはかからないよ。」 困るのは、この様な諦観が現状の危機を放置するどころか加速する方向に動くことだ。商業主義によって新たな欲望がつねに掘り起こされ続け、あきらめによる人びとの不満感を解消ないし回避させてしまうという事実がある。科学技術の“進歩”もそのことに大いに責任がある。
「成長を止めたら日本は崩壊する」「人々の欲望を抑えることはできない」と言うこの人たち(政府官僚や各種審議会の委員たち)は、人々のあきらめを組織的に利用して、現状の国家形態・産業形態を基本的に維持しようとしている。
▼欠如しているのは、人びとの未来に対する希望である。安全で自由な暮らしと未来に対する人間としての当然の希望、そのために努力したいという基本的な意欲は、誰でも持っているのに、あきらめの浸透が希望を押さえ込んでしまっているのだ。
そうであるならば、私たちはあきらめからの脱出、すなわち希望を、単に個人個人に期待するだけでなく、人々の心のなかに積極的にその種を播き、皆で協力し合って育てていくものとしてとらえ直す必要がある。それを、わたしはオーストリアの友人ペーター・ヴァイスに倣って「希望の組織化」と呼びたい。
多くの方が読んでいるであろう高木仁三郎さんの著書からの長すぎる引用(と、筆者の要約)は、不必要だったかもしれないが、いや、それでもという気持が抑えきれずこのような結果になってしまった。もし、高木さんが3・11以後も生きていたら、何を言い、なしたであろうかと、はかなごとを考えたりもする。
大野和興さんの、三里塚、太陽発電施設の完成を紹介する記事を読んで、先の福島・三春の農民発電(太陽光)とも重ねて、今、総選挙で原発・エネルギー政策について、華々しくも曖昧模糊とした内容が多い議論が盛んななかで、だれが脱(反)原発に向かって確実に歩いているのか、議論だけならだれでもできるかもしれないが、その身をもって、さまざまな役割を果たしながら力を一つに結集しつつ、成果を挙げていることにこそ、主権者の本領があるのだ、お任せ主権者でいては、何事もまっとうにははじまらないということを、改めて感じたので、そのことを書かせていただいた。
もちろん、総選挙に無関心でいるわけではない。
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