2013年03月03日17時16分掲載
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「皆のため」という大欲に生きること いただいた恩を返してバランスをとる 安原和雄
2013年3月は、私にとって満78歳の誕生月である。気がついてみれば、この高齢に辿り着いているわけで、ここまで生きのびてきたのかという感慨も湧いてくる。最近、年齢相応に脚にしびれを感じるが、幸い歩行困難というほどではない。これからなお10年、いや20年程度は生き抜いてみようという意欲も捨てがたい。
だからといって私利私欲に囚われていると、生きることの充実感は遠のいてゆくに違いない。これまでいただいた多くの恩を返してバランスをとること、さらに自分中心の「小欲」でなく、「皆のため」、「社会のため」という「大欲」に生きることはできないか。
以下は日本経営道協会代表・市川覚峯氏(注)の著作『仏道を歩む』からの紹介である。
(注)市川覚峯(いちかわかくほう)氏は長野県生まれ。44歳の時より「日本人の美しい心の復興」への志を立て、比叡山、高野山などで千二百日の修行を重ねた。下山後、「心と道の経営」の活動を推進している。著書に『いのち輝かせて生きる』、『修行千二百日』など多数。
(1)何のために働いているのか ― 衣食のためか、名利(めいり=名誉と利益)のためなのか
人々は忙しく血眼になって、朝早くから夜遅くまで働いているが、いったい何のために働いているのであろうか。
美しい衣装を身に着け、おいしいものを味わい、住み心地のいい家に住むためであろうか。車に乗って、東へ西へと駆け回るのは名誉を得たいからか、利益のためなのか。
そうした忙しい、心が亡びた日々の中で人間としての尊厳を見出し得るであろうか。己の名利のみに心を労する者に真の歓喜は望めない。
時には立ち止まり、人としての生き方を見つめ、自分は何のために、何を実現しようとして働いているのか、自己の生きる目的とは何か、人はどう生きたらいいのか、社会の中にどう関(かか)わるべきか、考え見つめ直すべきである。
<安原の感想> 仏道の脱皮・成長を期待したい
「あなたは何のために働いているのか」と正面から問いかけられたら、即答に戸惑う人も多いに違いない。失業者、非正規労働者が、労働力人口の3割以上にも脹らんでいる現状ではこの質問はいささか酷かも知れない。働く意欲も能力もありながら働く機会から排除されている人が多いこの時代をどう改革していくか。
仏道も従来型のお説教にとどまっているだけでは心に訴えることができるだろうか。改革を目指す仏道へと脱皮・成長していくことが期待される。
(2)多くの人の恩に報いるため人世のために尽くそう ― いただいた恩を返してバランスをとるため人を幸せにしよう
私たちは今日までいろいろな人の恩を受けて生きてきている。
生んでくれ、育ててきてくれた父母の恩。
いろいろなことを教えてくださった先生や人生の師である方から受けた恩。
また、共にはげまし、学び、向上しあった友人、仲間たちの恩。
自分を導き引き上げてくださった先輩や上役たちの恩、など限りない「おかげ」の力をもって今日こうして生き、活動している。
こうした返しきれない多くの恩に報いるために、多くの人々を幸せに導くよう世のため人のために尽くしていかなくてはならない。そうしないと人生の借りばかり多く残って、バランスが合わないまま死んでいくことになる。
<安原の感想> 恩にどう報いるか
「恩に報いる」といえば、今どき「なぜ恩なのか」という戸惑いと反論が返ってくるかも知れない。特に若い世代に、そういう批判や無関心が広がっているかもしれない。「恩」という表現に馴染めないのであれば、金銭に換算できない「人生の借り」をお返しすること、と考えればいいのではないか。
父母や先生などから受けた「恩」、共に励まし合った仲間たちの恩、先輩や上役たちの恩は、金銭では評価できないし、「返しきれない多くの恩」といえるだろう。
(3)自分中心の欲を捨て皆のために尽くす ― 私利私欲を抱いていると、いつまでも幸せになれない
仏が説法を説かれるのは人々に自分中心的な小さな観念を捨て去らせるためである。「自分が」、「俺が」と我(が)を前面に出し、私利私欲に生きて、その結果、苦しみ迷っている状況からは逃れなさい、と仏は教えている。
そのためには自分中心の欲=「小欲」でなく、皆のため、社会のためという大きな欲=「大欲」をもち、人世のために生きることである。
自分の働きかけや活動で世の中が良くなったり、人が幸せになり、他人のよろこぶ姿を見て、自分も幸せになっていくものだ。それこそ真の幸せの道である。
<安原の感想> 「真の幸せの道」とは
「社会のためという大欲に生きる」ことは、たしかに「真の幸せの道」であるに違いない。ところが現実には目先の私利私欲にこだわり、苦しみ迷う生き方が少なくない。
いつも不思議に思うことがある。私は居住地(東京都内)の私鉄駅ではエスカレーターには乗らないで、階段利用に努めている。しかし階段を歩いて上る人は私以外にはほとんどいない。特に若者たちに警告したい。エスカレーター依存症は、足腰を弱めて、将来の寝た切り予備軍になりかねないよ、と。一人ひとりは楽(らく)をしているつもりだろうが、これでは「社会のために大欲に生きる」姿勢からは遠いとはいえないか。
*「安原和雄の仏教経済塾」からの転載
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