2013年03月29日18時11分掲載  無料記事
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地域

【伊那谷から】満蒙開拓と国策   田中洋一

 この地にいるから当たり前と思っていても、全国的には決してそうではない事柄がある。満州移民の体験者が多い、というのもその一つ。信州の南部(阿智村)に満蒙開拓平和記念館が来月25日に開館する。いわゆる平和博物館は各地にあるが、満蒙開拓に真正面から取り組む施設は他にない。体験者のお年寄りが元気なうちに完成させたい、との願いが辛うじて叶う。 
 
 その意義を詰めていくと、国の存在が立ちはだかる。全国で27万人が内地から中国東北部や内モンゴルに渡った。送り出しは敗戦の直前まで続き、目的地に着くや荷物を解く間もなく、避難に転じた例さえある。このむちゃくちゃぶりはどういうことか。 
 
 個々の移民にも、送り出した地元にも事情はあったが、満州に民間人を送り出せ、という国の方針が止まらなかったからに違いない。いったん動き始めたら、敗戦という大きな壁にぶち当たらない限り続ける……。国策で原子力の商業利用が推進され、揚げ句の果てに大事故を起こした原発と何と構造の似たことか。 
 
 満蒙開拓平和記念館の建設は、飯田日中友好協会を母体に民間が推し進めた。国策の下に送り出された人々の歴史を伝える施設だから、国の意思表示があって然るべきだ。だが、省庁の担当者は「ハコものを助成した前例はない」と冷たかったそうだ。 
 
 実は林野庁が3000万円の助成をした。だがそれは、公的な施設に国産材を使ったという名目だ。国策の責任うんぬんとは全く関係ない。それでも私は思う。もし国にそのつもりがあるのなら、カネを出すという形でなくとも、その旨を示したパネルを取り付けるなり、慰霊碑を建てるなり、手段はあるはずだ−−と。 
 
 建設の取材に携わった数年前から、それが常に気がかりだった。完成を目前に、地域の満州体験者に改めて尋ねた。「あれだけ大勢の犠牲者を出したのだから、国が記念館を造るのが一番いい」。そう言う久保田諫さんは83歳。敗戦直後に同じ開拓団の集団自決に居合わせた唯一の生き証人だ。 
 
 「ペテンのようなことをして私たちを送り出した。満州で召集はしないと言っていたのに、召集令状を出し、その一方で関東軍や役人の家族は密かに帰還させていた」。満州に渡り、命からがら帰国した人たちの本心は、このようなものだろう。 
 
 もう一人、中島多鶴さんは87歳。満蒙開拓は対ソ防衛であったことを指して語る。「関東軍の戦略だったのに、そんなことは全く知らされていなかった。私の父は『いいところだ、食べるのに困らない』と言って、地域の人々を勧誘したのです」 
 
 形に残さなければ、いつかは消える声。それを風化というのなら、記念館は国の責任を風化させない施設として大きな意義がある。 


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