2013年04月01日12時38分掲載
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TPP/脱グローバリゼーション
【女たちのTPP】(3)福島・三春の女たちとともに 西沢江美子
三・一一以降、連日行われる計画停電という奇妙な東電のやり方。毎日毎日、その日の停電時間が地域別に新聞に発表され、役所の放送で「東電からのお知らせ」が流れる。まるで「原発がなくなれば、何もできないんだよ」といわんばかりのやり方。その日の行動は東電に管理されざるを得ない。あの春は冷たい春だった。すべて電化してしまっているくらしを改めて自覚させられ、ふるえながら東電(原発)にしっかりと握られてしまっている自分に腹を立てていた。
◆管理と統制のなかで
とぎれとぎれに灯される電気で、じっと耐えながら商売していたラーメン屋、居酒屋、酒屋、美容、理容院が次々に店を閉めた。後から小零細店をつぶすための停電だったのかと思いたくもなる。なぜ、この時代に「統制」があるのか。危険な臭いをかいだ。
それはやがて、祭り、花見、酒、旅行などなど、春の行事がいっさい、「東日本に…」と中止されていった。
町で村で「東北がんばれ」のステッカーがはられ、テレビや新聞も「東北がんばれ」一色。
私は得たいの知れない怖さに背中が寒くなった。東日本大震災は自然災害だが、それを利用し、福島原発事故をかくすことで恐怖をあおるといった状況に身震いしていた。
◆福島・三春町
福島県三春町。福島原発から四七〜五〇キロの地域。樹齢・一〇〇〇年のシダレザクラ(滝桜)で全国に知られた花の町。サクラ、ウメ、モモが次々に咲くことから三つの春、三春町と名をつけたとか。三・一一の春は、静まりかえり、薄黒い空気が町を包んでいるような年だった。
いつもならこの桜を中心に春は観光客でいっぱいになる。町の直売所は観光客でにぎわう。高齢化した町の女性たちは観光客目あてに、野菜、果物、花、その加工品などを計画的に作り、店に並べてきた。直売所で年平均二百五十万円ほど収入を得ていた。国民年金とこの直売所でくらしをたてているこの町の高齢農民の多くは女性である。滝桜のように地味だがしっかりと生きてきたはずだ。
女性たちは三・一一は「これまでの人生を真っ白にし、これからの人生を真っ黒にした」とよくいう。
三・一一の後初めて三春町を訪れたのはほぼ三週間後の四月五日だった。これまでいろんなことを一緒にやってきた女性を訪ねた。七〇歳になるその女性は「何もできないんだ。種子まくなっていうし、畑も耕すな、今年は滝桜の花見もできない。しちゃいけないっていうのだ」と寂しそうに訴えた。
「誰がそういうの。花見しようよ。種子まいて、畑耕して」
私は思わず彼女の背中をたたきながら、叫んでいた。誰かが何かのために「統制」している。春の祭りや酒をやめさせた力と同じものだ。そんな想いが「花見しようよ」になったのである。
後から彼女は「花見しようよ」の勇気ある言葉に「この人何考えているんだろう」と思う反面、胸の中で熱いものが大きく動いたといっている。
彼女は農協女性部で安心安全な農産物やその加工品づくり重ねてきた。安全な食品は調味料からと、自前の米で麹をつくり、大豆も仲間と共に生産し、みそを加工、みそづけなどをグループでつみ上げてきた。そうした小さな手づくり食品がTPPに加盟すれば、ほとんど成り立たなくなってしまう。それは、みそ汁がなくなることだと。TPP反対を農協女性部で訴え、署名活動、反対集会など農協と共にやってきていた。
その盛中に、三・一一は起こったのだ。「TPPどころの話ではない」。くる日もくる日も家の中で、黙ってテレビの画面に映し出される原発事故情況を目で追っているだけ。
春は農民にとって一年のスタート時点である。ここで何もできないことは、最低この一年は農民でなくなることだ。まして、放射能のことだ、何年たったら畑に出られるかわからない。だから「未来の人生は真っ黒」だというわけだ。
誰もが外に出ない、まして誰も福島県にやって来ない時に花見なんて、東京の人を連れてこられるのだろうか。
だが、約百人を乗せた二台のバスを滝桜花見に出すことができた。なかなか観光バスも福島まで行きたがらない。旅行会社も滝桜ツアーを組むことを遠慮、それに加えて、花見だ酒だは他人の不幸に良くないと注意されたり、とバスを出すまでにはいろいろあった。不幸だからみんなでいって不幸を分かち合い、花見は、花の前で語り合うことだ。そこから先が見えてくるはず、と踏み切った。
「バスで励ましに行くなんて、危険から逃げようとする人を押さえることだ」とバスに乗らない人もいた。そのことが「逃げる権利」と「そこにとどまる権利」を私に考えさせることになる。「とどまる権利」、それはこの三春町で何代も耕し続けてきた土とともに生きる権利、そこで生きる条件をつくっていくことだ。私の三春通いがはじまった。彼女らに寄り添うためにこの一年半でかれこれ二十回ほども、すべて自前で出かけた。
滝桜花見の二台のバスは三春町の人たちにちょっぴりだが勇気を与えたようである。あれから二回目の花見と収穫祭を東京を中心とした仲間たちと共に迎えるまでこぎつけている。
◆足元からの脱原発
一年半で三春の女性たちの到達した点をいくつか見てみよう。
農協女性部を年齢でしりぞいた彼女は、近所づきあいをしてきている七人の女性たちとグループを立ち上げた。放射能汚染のなかでの農産物づくりに不安ばかりだった。町と農協の放射能に対する対応は早かった。町営の測定所が開設され、「測って公表して売ろう」を、東京の仲間たちとの話し合いでまとめ、早い段階でグループに話した。万一基準以上の放射能が出たら、東京の仲間も農民の悲しみ、苦しみ、怒りに少しでも近づこうということを共通認識した。
全国的には風評被害といわれるように、福島ものは売れなかった。セシウムなど放射能の測定値(基準値以下)をつけても売れない。それも一年目はほとんど生産者持ちの測定料(一件一万円〜二万円)。三春町では町が測定、また三春町も合併で入っているJAたむらでは組合員の農産物はすべて測定していた。もちろん測定料は無料。町とJAはその費用をまとめて東電に補償を求めている。また、女性たちが出品する町の直売所は、1キロ当たり20ベクレル以上出たものは売らないという国の基準より五倍きびしい自主基準を定めた。
七人はなかなか自分のものを測定できない。
「万一セシウムが基準値以上に出たら恥ずかしい」といい「私だけでなく三春全体に迷惑がかかる」。責任は自分ではなく東電にあることを口ではいっているが、心でなかなか解決できない。一年たった頃からやっと、「測って公表しよう」が自分のものになった。いまでは、計った結果を見て、「どう作ったらもっと放射能を減らせるのか」「料理法もセシウムを流し出す法があるかも」と科学的目を出しはじめている。
「放射能を正面から見つめながら、少しでも減らしていく方法を考えたい。そして二度と原発は使いたくない。三春で生きていくことこそ原発のないくらしをつくっていくことかも知れない。」と農家の嫁になって四五年を彼女はかみしめるように話す。
大阪の生コン・建設業の労働組合(一五〇〇名)からカンパをいただいた。そのことによって三春町の女性グループは新しい段階を迎えることが出来た。それは「原発の足元で自然エネルギーで農産加工を」と脱原発を目に見える形にできたことである。
この労働組合は中小企業と連携しながら賃上げ要求をし、大手ゼネコンとストライキで闘った。勝ちとった賃上げ分を一年間被災地にカンパすることを決めた。その一部を三春町の女性グループに大型冷凍庫と太陽光発電の基本部分にカンパしてくれた。このカンパを元に全国の友人、知人からの支援で、十月から太陽光発電が動き出している。二〇三人と九団体合計八九万円のカンパは、退原発、反原発の電気メーターを動かしている。
太陽光でつくられたモチやまんじゅう。そして、太陽光冷凍庫には風評被害で売れなくて返品されたブルーベリーが加工されるのを待っている。太陽光で動く電気メーターを見ながら女性たちは「このクルクルを朝みると元気になる。未来はまっ黒じゃなくなった」と笑いが出はじめている。
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