2013年05月03日14時00分掲載  無料記事
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地域

【安房海より】房総半島の先端には戦跡と呼ばれる文化財がいくつも隠されている  田中洋一

 房総半島の先端、館山市には戦争の爪痕がいくつも隠れている。戦跡と呼ばれる文化財だ。安房文化遺産ファーラムの一行が高校生に案内するところを、昨日たまたま同行することが出来た。 
 
 赤山地下壕跡と呼ばれる市指定の史跡は、かつての館山海軍航空隊(海上自衛隊館山航空基地の前身)の隣。小高い山中を延長2kmのトンネルが縦横に走っている。見学できるのはその一部。 
 
 くりぬいたトンネルの天井は、ヘルメットが着きそうになるほど低い所がある。つい先日つるはしで削ったような跡がついている。施設には発電所があり、何10台もの通信機が持ち込まれていた。病室もあった。「壕」といえば、空襲で逃げ込む「防空壕」を思い起こすが、フォーラムは戦闘指揮所と捉えている。 
 
 四畳半ほどの一室を前にガイドの鈴木政和さんの足が止まり、高校生に問いかけた。「ここには何があったと思う?」。壁の一角に凹みがある。答えあぐねる高校生に正解を伝える。「ここは奉安殿。あの凹みに御真影が飾ってあった。と言っても分からないだろうな、天皇の写真のこと」。部屋は下士官の休憩室だったそうだ。 
 
 高校生98人は観光バスに2時間揺られて外房の町からやって来た2年生。慣れない土地の70年以上も昔の話に初めは関心なさそうだったが、案内人の巧みな話術に少しずつ引き込まれていく。 
 そこで鈴木さん。「戦争に負けたドイツと日本の違いは? 日本は戦争を導いた人が、戦後も財界や政界で重要な地位を占めた。ドイツでは排除されたのに」。さらに、「戦争は平和な時から準備しておかないと、間に合わない。いきなり戦えないからね」。 
 
 地下施設の掘削はいつ始まったのか。1930年代半ばに地下壕を掘ったとみられる土砂で海岸の埋め立てが行われた、との証言をフォーラムは聞き取っている。日米開戦の翌42年4月、米軍機が日本初空襲を敢行してからは、帝都防衛と本土決戦に備えて拡張が進んだと考えるのが自然だろう。 
 
 30年には館山海軍航空隊が海岸を埋め立てて開設された。一角に米軍が日本本土に初上陸した地点があり、高校生は次に見て回った。日本が降伏文書に調印した45年9月2日の翌3日朝、3500人の米兵が上陸した。海につながるコンクリートの滑走台が今も残る。 
 
 鈴木さんは伝える。「私たちは、戦争を仕掛けた立場から平和を考えています。そんな立場で君たちも勉強して欲しい」。もちろん、相手が高校生でなくても同じ姿勢だろう。だが、そんな立ち位置は、観光で生きる行政とは必ずしも一致しないそうだ。 
 
 フォーラムはNPO法人である。「地下壕が市の史跡に認められるまでに10年かかった。戦跡だけでなく、文化遺産を残す運動を市民が導いてきました」。そう語る愛沢伸雄代表は世界史の高校教員だった。粘り強い闘いの一端を見る思いがした。 


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