2013年06月13日14時59分掲載  無料記事
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国際

【北沢洋子の世界の底流】「トルコの春2013」の背後にある事実  政治・経済、そして人びとの思い

 かつてイスタンブールは、3つの帝国の首都だった。現在では、高層ビルが林立し、人口1,400万人、トルコ最大の都市である。6月11日(火曜日)早朝、ヘルメットや盾で重装備した機動隊数百人が、市の顔にあたるタクシム広場を占拠していたデモ隊を、催涙弾、放水車、重機でもって、強制排除にかかった。デモ隊の一部は、石や火炎瓶でもって抵抗したが、あまり激戦にならずに、広場は片づけられた。デモ側の団体「タクシム連帯プラットフォーム」は「エルドアン政権の市民に対する姿勢の象徴だ」と非難する声明を出した。いかなるグループ、イデオロギー、旗、ロゴ、シンボルも、このプラットフォームを代表していない。 
 
◆機動隊がタクシム広場のデモ占拠者を排除 
 
 しかし、この原則は、タクシム広場で始まったのではない。タクシムで始まったのは、広場の外にいる大勢の人びとである。彼らは、通信、組織上の支持、警察に追われたデモ参加者をアパートに匿う、法的、医療の支援、そして、国際的な連絡、通訳、翻訳といった仕事をボランティアで提供したことである。 
 警察の機動隊は、今回の事件の発端となった広場の中のゲジ公園には手を付けなかった。『CNNテレビ』は、「ゲジ公園では、依然として数百人が占拠を続けており、仲間に石や火炎瓶を投げないように説得している。占拠者は、ガスマスク、水泳用のゴーグルを付けて催涙弾に備えていた。タクシム広場から逃げ込んできた人びとに、催涙ガス用の液体を、目や口にスプレイしていた」と報道した。 
 
 この強制排除は、翌6月12日にエルドアン首相とデモ隊が対話することになっていた前日に起きた。対話の合意を発表したのは、首相代理で政府のスポークスマンであるアルンチ副首相であった。副首相は、デモ側から誰が出席するかについては、「タクシムに最初の日から占拠していた人びと」と述べるにとどまった。 
 しかし、『Radikal』紙は、「Taksim Solidarity Platform」のスポークスウーマンMucela Yapci、それに環境保護のグリンピースと人権擁護のHelsinki Citizens’ Assemblyの2つのNGO代表が参加すると報じている。 
 
 対話を推進したのは、野党「人民民主会議(HDK)」の党首で国会議員のSirri Sureyya Onderであった。HDKは、トルコ・クルド左翼の代理政党である。彼はブルドーザーの前に身を投げ出して、70年の古木を守った。そして彼は、病院に運ばれた最初の怪我人であった。彼は占拠者たちから、イコン的存在と見なされている。6月4日には、ギュル大統領やアルンチ副首相に面会し、対話の準備をした。 
 
◆どのようにして大規模デモが始まったのか 
 
 今年5月31日、イスタンブールの中心部にあるタクシム広場に、エルドアン政権に抗議するデモが起こった。このデモは、たちまち首都アンカラを含めたトルコ全土、77都市に広がり、数百万人が参加した。 
 
 このデモを始めたのは、100人の建築家であった。彼らはイスタンブール建築家会議所に属している建築家たちだった。彼らは、タクシム広場の中にあるゲジ公園の木を切り倒して、巨大なショッピング・モールを建設する計画に反対していた。市民にとって、この公園は、イスタンブールの唯一の緑の土地である。 
 
 政府は、消費こそが、経済の発展に繋がると言って「ショッピング・モールの建設」の理由にしている。このモールのデザインはオトマン・トルコ時代の兵舎の形をしていた。このほかに、エルドアン首相の野心的な巨大プロジェクト建設計画は、世界一の第3イスタンブール空港、国内最大のモスク、ボスポラス海峡に架ける第3の橋やヨーロッパ側のイスタンブールを2分する運河の建設などがある。 
 
 すでに市内の最古の映画館は取り壊され、ショッピング・モールになった。これは、「栄光のオトマン・トルコのラスベガス」と呼ばれる。この建設計画に対しては、トルコのファースト・レディHayrunnisa Gul 大統領夫人も反対した。19世紀のロシア正教の教会も壊されて、港の一部になった。市内あちこちにあるスラム街は、金持ちの邸宅建設のために、立ち退きを迫られている。この計画の推進者はエルドアン首相の義理の息子だと言われる。飛行場の近くのブルガリア移民の居住地Avecilarも立ち退きを迫られている。ある朝、突然、ブルドーザーと3〜400人の警官がやってきて、取り壊される。スラム住人が居住証明書を持っていないことに付け込んだ計画である。 
 
 政権側は、建築家たちの要望を全く受け入れようとしなかった。そして、5月28日早朝、公園にブルドーザーを持ち込むのを3人の建築家や弁護士が発見した。その中の1人で禅の信奉者でもあるBirkan Isin 弁護士は、「私にてとってイスタンブールは家で、タクシム広場は居間のようなもので、ゲジ公園の樹木は、私の身体の一部である。これらが犯されるのを黙って見ているわけにはいかない」と語った。Isin氏は「タクシム・ゲジ公園保護と美化協会」を結成していた。3人の急報で100人の建築家たちが、公園内に座り込みを始めた。これは、平和的な行動であった。 
 
 建築家会議会長のインシュダイ会長は「我々の運動は環境運動であって、反政府運動ではなかった」と述べた。彼らは、数日間で、嘆願書に12万人の署名を集めた。しかし、エルドアン首相は、「私は、決めたことはやる」「彼らが20万人集めれば、私は100万人を集めてみせる」と挑発的な発言を続け、耳を貸そうとしなかった。 
 
 そればかりでなく、5月30日、公園内に座り込んでいたテントを強制的に壊して、焼いた。そして警察は、デモ参加者に対して、催涙弾、プラスチック銃弾、放水車などを動員して、弾圧した。 
しかし、地元のマスメディアは、一切、このことを報道しなかった。例えば、CNNの国際版がデモの様子を報道している間、CNNトルコ版は料理番組を放送していた。しかし、デモの動画がインターネットに流されると、トルコ全土の蜂起につながっていった。「アラブの春」と同様、携帯電話や、ツイター、フェースブックなどのソーシャルメディアが、反開発の運動を、一大反政府運動に発展させた。「エルドアンは辞任しろ」と書いたプラカードがデモの主役になった。デモに参加できない女性や老人は、毎晩9時、一斉に、鍋やフライパンを叩くという行動で、デモに連帯した。 
 
 5月30日の警察の弾圧に対して、抗議の声が高まった。そこで、6月2日の日曜日のデモに備えて、警察はタクシム広場から撤退した。デモ側は、これを「直接民主主義の勝利」だと評価した。その結果、10万人がここに集まった。広場では、ビール缶を高く掲げて政府の禁酒令に抗議するものもいた。広場に翻っている赤旗には、近代トルコの父、ケマル・アタチュルクの顔が描かれてあった。 
 
 トルコの労組はタクシム広場を「メーデー広場」と呼んでいる。1977年のメーデーでは、タクシム広場に集まった10万人のデモ隊を近くのビルの屋上から射撃して、数十名が殺された。広場は血で染まった。しかし、犯人は不明である。以来、政府は広場でのメーデー集会を禁止してきた。毎年、タクシム広場に入ろうとする労働者や学生との間に、100件近い小競り合いが起こっている。今年のメーデーでは、議会で、野党の質問に対して内務相は「14トンの催涙ガスを使った」と証言した。 
 
 タクシム広場の占拠が、「ウォール街占拠(OWS)」などと決定的に異なる点は、6月4日、24万人のメンバーを持つ「全トルコ労組連合」がタクシムに連帯して、ストを行ったことである。 
 
◆エルドアン首相の独裁 
 
 警察は、この日までに全国で3人の死者、939人の逮捕者を出したと発表したが、デモ側は「逮捕者は2,000人」と発表している。一方、医師会は、怪我をした人が、1,000人を超えたと述べた。 
 
 エルドアン首相の強気な姿勢は、彼が率いる「公正発展党(AKP)」が、2002年の総選挙で地滑り的な勝利を占めたことから来ている。イスタンブール市長時代から、彼が、貧困層に住宅を供給するなど、手厚い政策を採ってきたので、人気が高かった。 
しかし、これまでの10年間、エルドアン率いる公正発展党が権力を握っている間に、首相とその取り巻きたちが、汚職、利権など腐敗し始めた。ゲジ公園の再開発計画も首相の義理の息子がからんでいると言われる。選挙で民主的に選ばれたエルドアン首相自身も、独裁者になっていった。 
 
 アルコール禁止問題が反エルドアン派の共通課題になった。面白いことに、ケマル・アタチュルクが大酒の飲みであったことである。トルコでは、アルコール問題は、世俗派と非世俗派とを分けるメルクマールになっている。そして、トルコでは、アルコールを飲まない人のほうが多数派である。 
 
 エルドアン首相の失政は、アルコール禁止だけに留まらなかった。彼は、「女性は子どもを3人以上産め」と言い、またある時は、「白いパンの時代は終わった」と宣言して、トルコ人全員に、固い全粒パンを食べさせようとした。 
 彼は、公然と、デモ参加者を「掠奪者(Capulcu)」、「ならず者」「アル中(Ayyas)」と呼んだ。 
 
 これまで、彼は、反対派を粉砕し、メディアを抑え込み、軍隊の将校たちを粛清してきた。彼は、民主主義を「51%で、何でも出来る」と考え、チェック&バランスの概念は全くなかった。 
 今日、強権的な首相に対して反対しているのは、世俗派の中産階級ばかりでなく、敬虔なイスラム教徒も、右派の民族主義者もいる。また左翼の共産党やアナーキストもいる。これはエルドアン首相にとって、危険な兆候である。 
 
◆ユートピア解放区 
 
 反エルドアン派が座り込んでいるゲジ公園は、解放区となった。野戦病院、放送局、図書館、床屋、屋台などが出現した。コンサートや演説用のステージもある。人びとは公園を「ユートピア解放区」と呼んでいる。元カフェだった野戦病院には、公立病院の医師たちも参加し、午後8時以後は、移動診療チームとなって巡回している。公園に通じる道路には50メートル置きにバリケードが置かれ、自警団が守っている。 
 
 商業メディアが、デモを報道しなかったため、ゲジ公園には、複数のテレビやラジオ局が開設した。その中の1つのテレビ局は、エルドアン首相が、デモ隊を「チャプルジュ(ならず者)」と呼んだので、自ら「チャプル・テレビ」と名づけた。これは、公園内の画像を生中継し、また誰でもカメラに向かって発言できる新しい参加型のテレビ放送が誕生した。 
 
 また 大学図書館のアイディン・イレリ館長が開設したゲジ公園図書館は、デモ参加者が寄贈した本が、一日に5,000冊も貸し出された。エルドアン首相が「ならず者」と呼んだ人びとの知的水準の高さを証明した。 
 
 一概に、ゲジ公園では、毎日祭りのような状態であった。 
 6月10日までは、デモは切れ目なく続き、収束の気配を見せていなかった。デモはかつてない規模に広がった。政府は時々、通信を遮断したり、監視カメラを押収したり、国内メディアがデモの規模や警察の暴力を報道するのを阻止したりするだけで、大規模な弾圧に出ることはしていなかった。6月8日をもって警察はタクシム広場から撤退し、デモ側に警備をゆだねた。 
 
◆トルコの経済に及ぼすもの 
 
 トルコは繊維製品など軽工業品をヨーロッパに輸出する工業国でもあった。一方アナトリア地方は農業で、これもまたヨーロッパが輸出市場であった。 
 
 90年代、トルコはハイパー・インフレに悩まされていた。また多額の債務を抱えていた。しかし、エルドアンの公正発展党が政権の座に就いた2000年代に、通貨のデノミを行い、さらにIMFに債務を前倒して全額返済したため、IMFの構造調整プログラムの重荷から逃れ、経済が復活した。この10年、トルコは年平均5%の経済成長率を記録し、BRICSに続くインドネシアなどの第2新興国グループの仲間入りをした。 
 
 しかし、今回の蜂起は、トルコ経済にマイナスの影響を及ぼした。デモが始まると、イスタンブール証券取引所は第1日目に株価が10%という大幅の値下がりを記録した。トルコの市街地の主な商業地域は、戦場と化した。またロシアなどから西ヨーロッパへの石油パイプラインの通過国という儲け口も脅かされた。6月11日、アルンチ副首相は、「デモは経済に7,000万リラ(2,800万ユーロ)の損失を与えた」と語った。 
 
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Yoko Kitazawa 
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