2013年07月20日09時45分掲載  無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201307200945006

反戦・平和

日本軍の重慶「戦略爆撃」被災者をめぐる旅(下) 加藤〈karibu〉宣子

  交流会と食事会の後、原告で、母親が爆撃で重傷を負った二人の女性、劉鳳蘭さんと倪世珍さんにゆっくり話を聞くことができた。倪さんの話を記録しておく。 
 
 「母親、董徳芳から話を聞いて育った。母親は幼いころ、長江の南、丁家嘴(ていかし)に住んでいた。4人家族で、父親は金銀などの装身具を作っていて、お金には困らない家庭だった。近くに祖母の妹とその夫で大工の棟梁をしている親戚が住んでいて、50〜60人を雇っており、当時の上流の生活をしていた。市の中央は空襲があって煙や火が立っていたが、この辺りはイギリスやドイツの領事館があったので空爆はされていなかった。政府が南京から重慶に移った。 
 
 1941年7月6日、母親が隣の子どもと家の前で遊んでいたところ、飛行機が飛んできた。母が興奮して数を数えていた時に爆弾が投下、家は全部潰れてしまった。家族15人が死亡したが、母は梁の下になって、大声を出していたところを助けられた。爆弾の破片で額が血まみれで、脚に爆弾が直撃、骨だけが残った。空爆の後、医者は足を切断すると言ったが、本人はいやだと言った。被害者が多すぎて、臭く、爆撃のくぼみを利用して埋めた。病気になる人もいた。結局、足の切断はしなかったが、歩き方がヘンで半年入院をした。兄はきちがいになり、親戚のおばさんは息子を亡くして失明した。母親は退院しても、生活が続けられず、手伝いや子どもの世話をして過ごした。衣料の工場で働いたこともあった。 
 
 新中国の設立の後、担ぎ屋の男性と結婚をした。空爆の前は裕福だったが、空爆があって不自由になり、運命も変わった。生活は貧しく、家族は4人だったが弟は栄養不足で細くて死んだ。文化革命時代、中国とソ連は不仲で、防空壕を掘って警告が出るたび、空爆のことを思い出して青くなって震えた。90年代、母親は子どもたちに「日本人はどこにいるか、分かれば噛みつきたい。恨みは深い。賠償をしてほしい」といっていた。自分が子どもの時代、父は担ぎ屋で家族を養った。母親は98年、外務事務所に行って賠償をしてほしいと訴えていた。原告団が結成する前、浙江省の裁判のことを聞いており、原告団成立を聞いて参加した。 
 
 日本政府は誠意がないと思う。爆撃のあった事実は間違いない。起訴し、資料を出しても返事がない、重慶の爆撃をなぜ認めないのか。将来を考えてアジアの国と仲良くしてほしい。事実を認めてほしい。今の政府として謝罪すべき、事実を認めないのは理解できない。ドイツは花束を献花して謝罪したが、日本政府は謝罪する気がない。被害者家族として許せない。人権を奪われて、殺されて、謝罪がないのは信じられない。恨みをなくすことはできない。母親は苦しんだまま7年前に亡くなった。子々孫々に伝えていきたいと思う。日本の普通の人々、東京大空襲の被害者と気持ちは一緒だと思う。市民として仲良くしていきたい」 
 
 26日は、朝、地元の歴史家などの研究者の方との会合を途中から抜け出し、洪崖洞という重慶の名所を、通訳をしてくれた内田陽一君と一緒に見て回る。三峡博物館で抗日戦争時代の展示も見学する。磁気口という港町の繁華街も歩いて回った。夜は重慶で中国酒の白酒を販売する会社の人たちから招待されて食事を一緒にした。 
 
 27日帰国の日は、朝から十八梯を訪れた。重慶爆撃の有名な写真に、階段に死体が散らばる写真があるが、その現場である。今は爆撃の跡形はなく、開放碑のある重慶中心部とはまた違ったたくさんの屋台の立ち並ぶ重慶らしい場所である。そして午後、上海を経由して帰国の途に就いた。 
 
 重慶では、1939年の「5・3、5・4」爆撃が有名である。最も市民に対する攻撃がひどかった爆撃で、5月3日は海軍航空隊による本格的な爆撃の開始された日である。重慶の繁華街を狙い撃ちした爆撃であった。連続した4日も焼夷弾を多用し、重慶の繁華街を襲ったものだった。1940年には5月18日から9月4日まで「101号作戦」と称して連続的に爆撃が行われる。重慶方面には攻撃日数41日、中国奥地攻撃全体で71日、攻撃機のべ4354機、爆弾2万7243発が使われた。1941年は6月5日に隧道大惨案が起きる。7月末から8月にかけて「102号作戦」も行われ、爆撃日数59日、攻撃機のべ3280機、爆弾9682発であった。1943年にも数回の爆撃を行った。 
 
 このような大規模な重慶大爆撃が行われたにもかかわらず、戦後の極東軍事裁判でも裁かれていない。ドイツや日本への無差別爆撃やヒロシマ・ナガサキへの原爆投下の責任を回避しようとした英米の思惑が働いていたためだそうだ。 
 
 今回の旅は、重慶大爆撃の被害を訴える中国市民の思いと、それに真摯に応えようとする弁護団の田代弁護士、一瀬弁護士の誠実さを、深く感じる旅となった。国が真摯に応えようとしない中でも、市民同士つながることは出来る。歴史認識の問題、尖閣諸島の問題など乗り越えねばならない問題もあるが、東アジアの平和を共に作り出すことは可能だと思えた。今後できる限り、重慶大爆撃訴訟も応援していきたいと思う。日本国がどのように過去の歴史と向き合うのか見届けたい。 


Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
  • 日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
  • 印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。