2013年08月04日14時10分掲載
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核・原子力
【たんぽぽ舎発】森滝市郎没後20年にあたって(下)核文明批判 井上 啓
広島原爆で一眼を失った年の秋から冬にかけて、中国山地の眼科医院で入院生活をしていたころ、私の胸中には一種の素朴な文明批判が芽生えていた。いったい、原爆などというものを生み出すような現代文明の方向は、このまま進んでよいものであろうか。この方向では人類は自滅を招くのではないかと。
しかし、その後三十年間に、私たちの憂慮や批判や抵抗をあざ笑うかのように、軍事利用でも平和利用でも核の開発はすさまじく進められた。核兵器の備蓄は、広島型原爆に換算してその四百万発分に相当するよいわれ、産業用のエネルギー源も主として核に求められようとする核時代に突入した。
政府や産業界は「軽水炉 増殖炉 融合炉」という図式で核エネルギー開発の展望を宣伝し、二十一世紀はあたかも壮大な核文明の華麗な世紀として迎えられるかのような夢をいだかせようとする。
しかし、そのような核文明の方向は人類にその未来を失わせるものである、と警告し、核と人類は共存しえないものと見定め、「核絶対否定」の決意と行動で人類の生存を守ろうとするのが私たちの原水禁運動である。
被爆三十一周年原水禁大会(1976年)の基調演説の結びで私は、核時代の産業文明を批判し、非核文明の二十一世紀を迎えるべきであることを訴えた。
いわく「もっと心配なことは、プルトニュウムを燃料とする高速増殖炉の開発によってプルトニュウム経済の時代を招来するのだ、と豪語しているものがありますが、そんな巨大エネルギー、巨大産業の核文明を招来したら、その絶頂で人類は、その未来を失うでありましょう。
巨大エネルギー、巨大開発、巨大生産、そして巨大消費という形態をとる核時代の産業文明は、いまこそその価値観を一大転換しなければなりません。価値観の転換とは何か。一言でいえば、すべて巨大なるものは悪であり、のろわれたるものであり、いと小さきもの、いとつつましきものこそ美しいものであり、よいものであるということであります。シューマッハー博士の言葉を借りると ビッ
グ・イズ・イービル(悪)。スモール・イズ・ビュウーティフル ということであります。
私たちは巨大なる核エネルギー産業文明によって子孫のものまで使いはたし、プルトニュウムのようなやっかいきわまる遺産を子孫に残すべきではありません。
いま私たちは、二十世紀の最後の四半世紀にさしかかりました。この四半世紀こそ、人類が)生存への道を選ぶか、死滅への道を選ぶか、最後の機会であります。私たちは、やはり生存への道を選ばなければなりません。二十一世紀に生き延びなければなりません。生き延びる道は何か。核絶対否定の道しか残されてはいません。核は軍事利用であれ平和利用であれ、絶対に否定するよりほか、人類
の生きる道はないのであります。いまこそ価値観を大転換させ、核文明を否定して非核文明をきずき、人間の深い、美しい生きざまをひらいていこうではありませんか」と。
ここでいう非核文明の方向をひらいてゆくためには、大まかにいって二つのみちがある。一つはイングリス博士が提言するように、核エネルギー以外の代替エネルギーを開発する道である。太陽熱、風力、地熱、潮位の差を利用する発電である。
もう一つの道は、人間の生きざまを「自然易簡」の道かえすことである。「自然征服」の思想と生活から「自然隋順」の思想と生活にかえることである。
私は昨年(一九七八年)国連訪問後、ニュー・ハンプシャー に加わってアマーストを訪れ、イングリス博士に再会して相語り、アマースト郊外のモンタギュー村で「自然農場」を営むラヴジョーイさんを中心とする九人の同志の新しい生きざまの探求に感動した。アマースト訪問で、私は非核文明のビジョンを得たのである。
※井上啓:元・原水爆禁止日本国民会議事務局次長、NPO法人農都共生全国協議会事務局長、NPO法人有害化学物質削減ネットワーク理事
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