2013年08月24日01時22分掲載  無料記事
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ベルクソン著 「時間と自由」  〜人間は自由なのか、決定されているのか?〜ベルクソンの青春の試論

  この夏、フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(Henri Bergson,1859-1941)の「時間と自由」にトライした。かれこれ20年来、興味を持ちながらもなかなか読めないでいた本だ。興味を持ったのは本書の中に、ミミズのようなうねった線分が挿絵で描かれていたことだ。そしてM,O,X,Yという4つのアルファベットが線の脇に書き込まれている。このミミズのような線とアルファベットの説明図に僕は惹きつけられたのだ。人間は自由なのか、自由でないのか、それを論じている箇所である。 
 
  ベルクソンは「時間と自由」の中で、こんな問いかけをしている。もしAさんがBさんのあらゆる情報を持っていたと仮定しよう。だとすれば、AさんはBさんがある時点でどんな行動に出るか、予測できるだろうか? 
 
  たとえば道が左右に分かれているとして、Bさんがどちらを選ぶか予測できるだろうか?ベルクソンはミミズ曲線をここでも描いて、M、O、X、Yの4つの点を線の脇に書いている。Mから道を進んで来て分岐点Oに差し掛かり、そこで道はO→Xか、O→Yかに分かれる。この場合BさんはOからXに行くか、Yに行くか? 
 
  最近、テレビ番組でもしばしば「未来予測」という言葉を見聞するようになったが、未来は予測できるのだろうか。あるいは人間の行動は予測可能なのだろうか? 
 
  ベルクソンはこのテーマを考えるに当たり、Aさんがいかに予測しようとしても、AさんはBさんの生を生きているわけではない、ということをまず確認する。ではBさん自身は自分の選択を予想できるのだろうか? 
 
  ベルクソンはそこでBさん自身がある先行条件を与えられていたらそれらの条件が複合されて、その結果、Bさんが機械的にXかYかどちらかを選択するのか?と問いかける。あるいは逆に、どんな先行条件がBさんに与えられていたとしても(たとえばXかYのどちらかに恋人が待っているとか、どちらかに盗賊がいるということをBさんが知っているとしても)Bさんは道の選択において究極的には自由なのか? 
 
  ベルクソンは未来は諸条件の綜合によって決定されているとする決定論(すなわち自由は存在しない)と人間がどんな行動を取るかは人間の自由であるとする自由論の二つに異を唱える。それらはこのMOXYのミミズの線のように、時間を空間になぞらえていることから起こる誤謬だと考える。このようなMOXあるいはMOYという線が存在すると仮定すること自体が時間を空間になぞらえているのだという。 
 
  ここで欧州の哲学者がそれまで時間をどう考えてきたかが絡んでくる。空間は可視的だが、時間は見ることができない。アナログ時計の文字盤の12の数字は時間ではなく、物質の配置に過ぎない。空間がメートル単位で分割できるように、時間もこのアナログ時計の文字盤のように等間隔で分割されているものだろうか?それらは単に見えない時間を空間になぞらえたものに過ぎないのではないか? 
 
  ドイツの哲学者カント(1724-1804)は人間には宇宙の究極の真理である「物自体」を見ることができないと説いた。それは人間の能力を超えるからだ。こうしてカントは「神」の問題を(  )に入れることに成功した。人間には「物自体」を見ることはできないが、世界を認識する能力が先天的に与えられている。その認識の形式には大きく分けて2つ、「空間」と「時間」がある。人間は「物自体」が投げかけるものを先天的に持っている空間認識と時間認識の中でとらえるとカントは考えた。 
 
  しかし、ベルクソンはこのカントの時間に対する考え方に異を唱えた。空間については理解できても、時間とはいったい何なのか?過去から未来に向けて、等間隔で時間が並んでいく直線のようなものなのか?ベルクソンはカントの時間に対するとらえ方に、不満を覚えたのである。実際、人間は楽しい時は時間が短く感じられるし、つらいときや退屈した時は時間が永遠のように長く感じられる。また人間が死ぬときには人生が走馬灯のように脳裡に浮かぶとよく言われる。我々は0か1かの選択で機能するデジタル機器ではなく、複雑な感情を持った動物なのである。 
 
  先ほどのMOX、MOYの2つの道の選択に関して、ベルクソンはこう述べている。 
 
  「実際、空間における私たちの心的活動の紛れもない二重化であるこの図は、純粋に記号的であり、またそのようなものとしては、熟考を尽くして決意がなされたという仮定に立たないかぎり、つくることはできないことを忘れてはならない。いくら前もって図を描いたとしても、無駄であろう。なぜかといえば、そのとき、諸君は自分が終点に到達したと仮定し、想像によって最終的な行為に立ち会っているからである。要するに、こうした図が私に示すのは、なされつつある行動ではなく、なされた行動である。」 
 
  ベルクソンがここで言っているのはMOXとかMOYという道筋は行為が終わった後の後づけの思考に過ぎない、ということである。たとえば行動しているまさに現在進行形の時点ではXかY以外の選択肢も、たとえばZとか〜意識に思い浮かばなかっただけで〜あったのかもしれない。あるいはXに行こうとしたら、あるいは途中まで歩いたものの、その時、偶然誰かと出会ってYに道を変更することもあり得たかもしれない。人間の行動は予測しきれない。これは決定論でも自由論の立場でもなく、単にそれが不可能であるからに過ぎない。人間は刻々と心理が変わっていくし、刻々と状況も変化する。だから、ベルクソンはこうした単純な図式化で人間の未来を考えることはできない、なぜならそれは時間を空間化しているからと指摘する。時間は空間に表象することができないものだ。時間とはその瞬間瞬間の持続である。 
 
  「MOという道を通過し、Xだと決心した自我がYを選ぶことはできたか、できなかったかと問わないでほしい。実際には線分MOも点Oも、OXという道もOYという方向も存在しないのだから、私としては、そういう問いには答えられないと答えるほかはないであろう。そういう問いを立てること自体、時間を空間によって、継起を同時性によって十全に表象できるという可能性を容認することになる。・・・それは軍隊の進軍を地図の上でたどるように、心的活動の過程を図形の上にたどることができると信じこむことなのだ。・・・この図形は物を表示するのであって、進行を表示するのではないのである」 
 
  これは若きベルクソンが論文で書いたものが出版されたものだから青春の書でもある。カントと言う哲学上の巨大な存在に堂々と異を唱えたのだ。しかも、ベルクソンの指導教官が新カント派だったというから、生意気な学生だったのかもしれない。しかし、ベルクソンは学会の常識にとらわれず、終生、自分の直感を信じて生きた人間だと思える。 
 
  フランスの哲学者ベルクソンの出世作と言える「時間と自由」はもともとのタイトルの直訳ではない。原題は’Essai sur des donnees immediates de la conscience'で、これを直訳すると、「意識に直接与えられたものについての試論」となる。「時間と自由」という題にしたのは、英訳書のタイトルに倣ったと翻訳者が解説で打ち明けている。 
 
■ベルクソン著「時間と自由」(中村文郎訳 岩波文庫)を参照した。 
 
■アンリ・ベルクソン 
 
  「物質と記憶」「思想と動くもの」「創造的進化」「笑い」など。1927年、ノーベル文学賞を受賞。 
 
 
■ヒューム著「人性論」 ‘A treatise on Human Nature’ ヒュームは面白いが本気でやると難しい。でもヒュームを読んでおくとカントが楽になる 
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■ジョン・ロック著 「統治二論」〜政治学屈指の古典〜 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312221117340 
 
■トマス・ホッブズ著 「リヴァイアサン (国家論)」 〜人殺しはいけないのか?〜 
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