2013年09月11日12時22分掲載  無料記事
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コラム

パリの散歩道  〜モノと人と言葉〜

  パリに来ると、立体芸術に取り組んでいる人が多いのを感じる。鉄のパイプを溶接でつないだり、もっと小さなところでは針金で動物や乗り物などをかたどった土産物を作って売っていたり。平面と違った、こうしたモノとの戯れはときに「無駄な芸術」のように冷ややかに感じられることがあった。そもそも立体芸術は絵画に比べて、場所を取る。日本の家屋では収納スペースも限られているのだ。こうした芸術が毎年作られているとしたら、毎年ある程度は壊されているのだろうか。 
 
  だが、芸術家にとってみると、おそらくそんなことは大した問題ではないのだろう。大切なのはきっと作る、というプロセスなのだから。 
 
  パリのあるお宅を訪ねたら鳥の立体芸術があった。鳥といっても、金属製のブラシや料理道具など、身近なものを組み合わせた作品である。しかし、こうして完成された「鳥」を見ると、なるほど確かに鳥の存在感がある。リアルな生物ではないが、再創造された鳥である。口は開閉できるし、目もあるではないか。作ったのはゲノレ・アゼルチオップという人で、普段は舞台装飾家だそうだ。 
 
  これらのモノは日常の有用性から離れて、こうして別な用途に使われている。それは純粋な目の娯楽と言ってもいいだろう。ゲノレにとってはモノづくりはおそらく、日常性との戦いなのかもしれない。だから、普段キッチンに入ったり、道具屋に入ったり、道を歩いたりしながら、マテリアルを貪欲に眺めて、何か別の角度から光が当てられるのではないか、と常に貪婪に見続けているに違いない。 
 
  僕は以前、インターネット犯罪の取材をしていたとき、アメリカのハッカーに興味を持った。ハッカーの歴史を紐解くと、初期のハッカーたちは通信技術オタクの少年たちだったのだが、彼らが最初に手がけたのは公衆電話をタダで使うことだった。その手口は「電話」を1個の完成された商品と考えたら生まれなかっただろう。電話=通信するための「箱」だと見切ったからこそ、日常性を超えた(犯罪)行為を生み出したのである。 
 
  僕は日本人はモノを完成された商品としていつも見ているような気がする。だからその完成された最終形を崩す、あるいは用途を変えてみる、という発想があまりないように思う。車=移動する箱、あるいは車=車輪がついた移動する箱、というように一度抽象化する習慣がないとそれを超えることができない。モノを抽象化することはモノから自由になることで、モノを超えることだ。 
 
  パリには芸術を考える前に、まず人間とは何か?車とは何か?鳥とは何か?その条件を貪婪に問うてみる姿勢があるような気がする。それはおそらく遊びなのである。当たり前に思っているものを疑い、分解し、再構成する。頭で考えるだけでなく、手を使って考える。そこが絵画と違う立体芸術の無意味性でもあり、味わいでもある。 
 
  ゲノレが作った「鳥」にはタッグがつけられていて、「小生はベジェタリアン(菜食主義者)なり。小生はワインのみを食す」と書かれていた。そして、よく見ると、この鳥には翼がないのである。これが「鳥」だというのは僕の思い込みだったのかもしれない。実は「鳥」というタイトルはどこにもなかった。そう言えば口には歯があるし、足も4本だ! 
 
 
■ゲノレ・アゼルチオップ(Guenole Azerthiope,1944-) 
 
彫刻家。舞台装飾家。短編映画監督。舞台装飾の最近の仕事はコメディフランセーズによるイヨネスコ作「椅子」やベケットの作品など。 


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