2013年10月09日10時21分掲載
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反戦・平和
日本国憲法はどこへ行く? カナダでは「9条」擁護を日本政府に訴える運動 落合栄一郎
日本では、明治22年(1889)に明治憲法が公布され(施行は1年後)、それが、第2次世界大戦後まで継続していた。ここで、明治憲法の制定過程や内容を議論するつもりはないが、「天皇主権」が根本原理であり,主権在民という民主主義の精神に基づいてはいない。
敗戦により、米国駐留軍が日本を占領し、日本の政治・社会を支配していた。その中で、旧議会派や民間の弁護士の組織などが、別々に、日本のそれからの社会の枠づくり、すなわち新憲法創出を議論し、それぞれが、その案をGHQに提示した。旧議会派の案は、明治憲法からの束縛を逃れられず、米占領側は一顧だにしなかった。一方、民間側からの案(映画「日本の青空」参照)は、米国側に共感を呼ぶものが多かった。米国も日本の新憲法草案を練りつつあった。
こうしてできた新憲法草案には、「戦争放棄」の条項はなかったのだそうである。この条項は,GHQ司令官マッカーサーと当時の幣原喜重郎総理との会談で、幣原氏の発言に基づいて作られたことを、マッカーサーは後の回想で明言している。この点や基本的人権など、新憲法は日本側によって形づけられたと言ってよい。天皇の地位については、アメリカ側は、「天皇が日本国の象徴」という表現にまで譲歩し、そして天皇の戦争責任などは、不問にした。すなわち,新憲法がアメリカに一方的に押し付けられたという主張はあたらない。
戦争放棄と軍備を持たないという9条は、苦悩を押し付けられるだけだった戦争経験者・犠牲者の国民にとっては、非常に輝かしい未来を約束するように感じられた。アメリカ側には,日本が直ちに再軍備化するのは、アメリカや連合国にとって不都合、脅威であるから、それを避けるという思惑がこの条項には込められていた。この思惑をアメリカは、戦後の状況変化により、ほとんど直ちにかなぐり捨てたようである。それは朝鮮戦争に始まる、第2次世界大戦後のアメリカという唯一の大国が、世界中で様々な状況にちょっかいを出し始め、そのために足りない戦力を日本に負わせようという魂胆から出ている。それは朝鮮戦争に始まり,ヴェトナム戦争へと極東での戦争で、日本の加担を引き出そうと画策した。
それに応じて、日本は,9条の精神から逸脱して、警察予備隊から、自衛隊へと軍事力を高めてきた。9条があるとはいえ、自衛は、国連憲章にも認められている権利であり、自衛に徹した軍事力は、9条の精神に反しないという論理である。冷戦が終わった1990年以降、アメリカの戦争介入の機会は増えた。そして、最近は特に,アメリカの財政逼迫による軍事費削減を日本に、経済的、軍事的に補填させるべく,プレッシャーが高まっている。それに呼応して、自民党は,憲法改定を公言して政権の座についた。このアメリカからのプレッシャーの下、憲法改定を経ずに、集団自衛権を確立しようという動きも同時にある。いずれにしても,現政権は,日本を通常の戦争ができる国にしようという意図である。
人類は、いつの時代にも、何らかの武力抗争をやってきた。21世紀の今も、武力を国際紛争、侵略の手段にしていることには変わりはない。これが、日本で、通常の軍事力を持てという議論の基本になる。すなわち、人類から戦争は絶対になくならないのだから、日本も正常な軍事国家になるべきと。特に,現今の中国、北朝鮮などとの緊張を強調することによって、そのことを正当化しようとしている。それに煽動された右翼勢力は、反対分子に対して、殺し文句「非国民」なるレッテルをはってプレッシャーをかけている。この雰囲気は,15年戦争開始/戦争中への回帰を危惧させる。
しかし、今までの武力抗争と、これから起こりうる大規模武力抗争には本質的な違いがある。それは武器にある。大量破壊兵器の存在、その大量の蓄積である。原爆、化学兵器(毒ガス)、生物兵器など。人類の縮少努力にも拘らず、大国は、これらの兵器を公に、ある場合には非公式に保持している。そして,現状を大幅に変えない限り,いずれは、これらの兵器が使用される地球規模の戦争になる可能性は高い。現状とは,紛争を武力で解決するという基本姿勢である。
ここに,9条の意味がある。9条は,交戦権を捨て、兵力をもたないことを世界に向かって公言したものである。日本は,勇気をもって、これを保持し、この理想に近づく努力をすべきである。勇気をもってというのは、隣国などからの脅威を、武力抗争でなく、なんとか話し合いで、平和裏に解決するという意気込みをもつということである。実際,日本が武力をより拡張し,自衛の為とはいえ、戦火を交えることに手を染めるとすると、現在の人類の技術レベルでは、日本国土を安泰に保持することはほとんど不可能であろう。日本に散在する54基の原子炉がミサイルの標的となり、その5分の1でも破壊されたら、日本は人間の住めない放射能汚染国になる。すなわち,原発が核兵器と同じ働きをするのである。
逆に、日本が9条を保持し、非武力による紛争解決の世界のリーダーに成るならば,世界からの尊敬を受けこそすれ、武力攻撃の対象にする国はなくなると思う。スイスが良い例だと思う。そんな理想論はだめだ、と言ってしまえば、それまでだが、原爆の洗礼をうけた日本国こそが、この理想を高く掲げるべきである。
WFM(World Federalists Movement)のバンクーバー・ブランチは、現在、日本国憲法9条の貴重さを強調し、その擁護を日本政府関係者に訴える運動を起こそうとしている。世界中の人々を動かして、日本政府に働きかけることは有効であろうと思われる。
一方、日本国民は,戦争被害者ではあったとはいえ、戦争を引き起こした側への充分な反対の意志も伝えられず、軍部の独走、その暴挙などを許したことに一端の責任はあるものと考えて、その歴史事実を検証し、学ばなければならない。
(これは、カナダ日系人向けの月刊誌JCCA、2013年10月号に掲載されたものからの転載である)
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