2013年10月12日20時59分掲載
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コラム
安部公房と2チャンネル
当ウェブサイト編集長のツイッターによると、大企業などが2チャンネルに匿名の書き込みをして若者を煽っていたのではないか、という情報がある。2チャンネルなどインターネット社会の匿名性については、当ウェブサイト「日刊ベリタ」でも<匿名性こそインターネットの新たな解放性である>というような評価をしている論者もいたように思う。
匿名は何もインターネット時代に始まったものではなく、古くからたとえば偽名を使うケースはあった。アルジェリアのある現代作家の場合はかつて軍人だったという事情もあり、女性の名前(妻の名前であるヤスミナ)を偽名に使っていた。真実を知っていても、あるいは創造力があっても、本名を使うのがはばかられるケースがあると思う。日刊ベリタにおいても、全員が本名かどうかも定かではない。だから、インターネット時代に匿名性の声が氾濫するようになったのは確かだし、それらがすさまじいスピードと数で時には政権を覆すような事態も国によっては起きているのだが、それでも匿名である意見を発表することは究極のところ、今に始まったことではないのである。
しかし、インターネット社会では他人の顔写真やアニメのキャラクターを自分の発信する媒体に自分の顔写真代わりにはりつけるケースが多いし、男女も、老若も真実わからないケースがある。時には発信者の国籍すら不明だ。そうした人々がメッセージのやりとりをしているのがインターネット社会である。そこには擬似恋愛もある。将来自動翻訳機能がさらに進化すればこの傾向は世界中で進むだろう。
こういう社会をいち早く想像していた作家の一人が安部公房だろう。安部公房は終生、人間のアイデンティティをめぐる物語を書き続けた。名刺も、パスポートも、あらゆるアイデンティティを保証してくれるものがなくなったら、どうなるのか。そういうトラブルに見舞われる人間の話をたくさん書いている。書きながら、そのような場合に人間は究極のところ、なんであるのかを考えたのだと思う。
安部の原点は処女作「終わりし道の標べに」ですでに顕著に現れていた。満州の奉天で戦時中生活していた安部は、日本の敗戦とともにそれまで確固としていたかに見えた国境線が消え、帝国が消滅してしまうのを目のあたりにした。それはある意味で地獄でもあったが、もっと違ったアイデンティティが人間にはあるのではないか、という考えを若い安部に呼び起こした。国籍や社名や最後には名前すらなくなったら人間は何を最後のよすがにするか。これが戦後の安部文学のテーマとなった。
安部は在りし日に、NHKの番組でこんなことを語っていた。安部は少年時代、大日本帝国が当時唱えていた五族協和の思想を尊く思っていた。それは日本人も満州族も漢族も朝鮮族も蒙古族も、みなともに平等だという思想だった。しかし、あるとき、安部少年が満州で列車に乗っていると、日本の軍人が、座っていた満州の現地人を立たせて、力づくで自分が代わりに座ったのを見て、幻滅したと言っていた。安部はこのとき、国家や企業や性別といった属性によるアイデンティティを超える何かを直感的に探し始めたのだろうと思う。
安部の文学全集を読んでいると、安部は人間の最後のアイデンティティは声にあると考えていたのではないか、と思えてくる。その声が真実かどうか、誠実かどうか、正しいかどうか。それを見極めるのが人間であり、それは国籍や、地位や社名によって人を判断するのとは判断の基準が異なり、個別にその声が真実かどうか1つ1つ自分の眼力と感性で見極めるほかない、ということであろう。だから、最終的にインターネットによる匿名<言論>社会が到来して、いろんな匿名の論者がいろんなことを唱えていたとしても、それを見極めるのはひとりひとりにほかならない。安部は、むしろそこに新たな人間関係の可能性を見据えていたように思える。
その場合に、ツイッターもそうだが、メッセージがどんどん短くなる傾向があり、他人の言説のコピーである場合が増えていることは、声を判断する場合のむしろ障害になっているのかもしれない。なぜなら、無数の人が同じ人の声を反復するだけなら、声の主を判別することも困難だからだ。その人がなぜそのような考えを抱くに至ったのか。そのような考え方をする根拠はどこにあるのか。そうした個々人の真実をツイッターや2チャンネルのような短いメッセージだけで伝えることは難しい。
匿名社会であればあるほど、1つ1つの言説に個人の印をとどめ、そこに統一性がなければ、その声はいずれノイズでしかなくなっていくだろう。
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