2013年10月21日14時47分掲載  無料記事
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地域

【安房海より】“戦争”を掘り起こす地元ジャーナリストたち  田中 洋一

  半年前に離れた信州伊那谷の報道仲間から作品を収めたDVDが届いた。30分の「農耕隊の記憶」だ。私が手掛けようとして出来なかったテーマを、CATVの伊那ケーブルテレビジョンで働くカメラマン・ウーマンがまとめた番組で、9月に地元で放映された。 
 
  敗戦直前の伊那谷には、軍関係の施設が次々と姿を現した。陸軍の伊那飛行場であり、風船爆弾や謀略兵器を取り扱う登戸研究所は疎開してきた。どちらも、教員や教え子が熱心に掘り起こした結果、地元の歴史として知られるようになった。 
 
  農耕隊の公式名は農耕勤務隊。敗色の濃い大戦の終盤、本州中央部に配備された食料増産部隊だ。農作物だけでなく、サトウキビや松根から代用燃料の生産も目指したといわれる。戦場に送り出された若者の代わりに、朝鮮から若者を動員した点が重要だ。 
 
  私は5年前、青山学院大学名誉教授の雨宮剛(あめみや・つよし)さんに教えられた。79歳で専門は米文学・英語教育。彼は『謎の農耕勤務隊』を自費出版し、「遺作です」と昨年送ってくれた。だが私は仕事に活かせなかった。転勤を機に、戦争を伝える仕事を重ねてきた彼らならばと期待して、CATVの仲間に転送したのだ。 
 
  彼らは地元に密着したメディアの強みを発揮した。農耕隊の朝鮮人に出会った住民に当時の話を聞く。国民学校(現在は小学校)の校舎が宿舎だったと突き止める。戦後、生徒たちと農耕隊の跡に迫った元教員の思いをたどる。中央アルプス山麓の開墾地には、彼らが文字どおり鍬を振るった土地の多いことも明らかにする。 
 
  浮かんだ農耕隊像は、形だけ皇軍兵士だった朝鮮人への民族差別だ。中央アルプス麓の国民学校校舎に寝泊まりしていた農耕隊。同じ学校に通っていた79歳の男性は「食べ残した弁当をあげたら、おいしそうに喜んで食べていた。いつも腹を減らして重労働しているんだ」と子供心に感じたと振り返る。「一緒にアリランを歌った」と懐かしむ87歳の食堂の女将は、「軍人にいつもせき立てられ、怒られていた」朝鮮人の姿を覚えている。 
 
  中学社会科の教員として聞き取りをした80歳の郷土史家は、働かせた側の証言も必要だと26年前、元分隊長(故人)を静岡県に訪ね、証言をビデオに撮った。「虫けら同然の扱いで開墾させた。逃亡兵が多くて困った。逃げれば帰国できると思ったようだ」と元分隊長。山狩りで捕まえた時の様子は「思い出したくない」とだけ言い、過酷な処罰を暗に認めていた。 
 
  闇に埋もれた農耕勤務隊の歴史を掘り起こす番組は未完で、巻末のナレーションは「証言を今後も求め続けていきます」と呼び掛けている。それにしても、CATVの彼らが戦争を伝える仕事に毎年取り組む姿を、私は称賛したい。「農耕隊の記憶」は「上伊那の戦争遺構」シリーズの第7作に当たるのだ。 


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