2014年01月17日09時57分掲載  無料記事
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コラム

堤清二の「市民の国家」論とは 政官財界は「没落」を回避できるのか 安原和雄

  政官財界の内側にいて批判精神を失わないユニークな経営者として知られていた堤清二氏が亡くなった。若手経営者の頃から望ましい国家の姿として「市民の国家」論を唱え、それに耳を貸さない現状のままでは「産業界は没落の一途」を辿るほかないとも指摘した。政官財界は果たして「没落」を回避できるのかという問題意識は、今後も常に新鮮な問いかけとなるだろう。 
 日本の著しい右傾化に熱心な安倍自民党政権に向かって、堤氏としては根底から批判するほかなかったに違いない。しかし寿命という自己管理しにくい制約のため、それを果たす機会を与えられなかった。堤氏にとっては無念であったと言うべきだろう。 
 
 朝日新聞(2013年11月29日付)は「経済人・作家 堤清二さん死去」の見出しで次のように報じた。 
 セゾングループを率いた経済人であり、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても知られた堤清二(つつみ・せいじ)さんが死去した。86歳。小売業(西武百貨店など)に文化事業を融合させる一方、日本の戦後をみつめた文化人の死を悼む声が28日、相次いだ。西武百貨店を傘下に収めるセブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長は「非常に感覚が鋭く、尊敬していた」とコメントした。 
 
 『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』(毎日新聞社刊「毎日新聞経済部編」1975年刊)に堤 清二氏の証言(記事中の見出しは「″市民の国家″に改造を」、「経済界は没落の一途」)が収められている。政官財界人にインタビューしたのは主として私(安原=当時、毎日新聞東京本社経済部員で財界担当記者)だったが、多くの経済部員の協力を得た。当時の西 和夫・毎日新聞(東京)経済部長は、この長期企画の『証言』について次のように指摘している。 
 「日本株式会社の重役たちが1974年から75年にかけて何を悩み、何を志向していたか、とくに一枚岩的な政・官・財複合体の亀裂が刻み込まれたことについていかに深刻な危機感を持ち、その打開策に眠られぬ夜をすごしたか ― を記録する証言として、昭和経済史に残る資料的価値を担うものと自負している」と。 
 
 40年も昔のインタビュー記事だが、決して「単なる昔話」にとどまっているわけではない。むしろ21世紀の今の時点でもなお示唆に富む証言となっている。以下、その証言(大要)を紹介し、<安原の感想>を付記する。 
 
(1)「市民の国家」に改造を 
 問い:石油危機とインフレのなかで企業の社会的責任が問われたが、今日の企業の社会的責任はいかにあるべきだと考えるか。 
 堤:生活にとって有用な製品を需要に応じて作り出していくのが重要な社会的責任だ。いいかえれば社会的ニーズに応えることだ。社会的ニーズのなかには物質的な豊かさだけでなく、最近では人間的豊かさが大きく出てきている。公害防止は当然のことだし、それに生きがいも企業が労働者に対して果たすべき社会的責任の重要な部分だ。 
 問い:どうしてわが国では、あなたの指摘する意味での企業の社会的責任論が定着しなかったのか。 
 堤:明治のころから道義的経営者はつねに少数派だった。その少数派の例として住友の別子銅山の公害対策がある。今日のカネに換算して500億円程度の巨費を投じて公害問題に取り組んだ。もう一つ、明治時代の公害事件として有名な足尾銅山があり、その公害反対運動のリーダーだった田中正造は「別子銅山は企業経営の見本だ」とほめた。米国では公害問題にその地域の経営者が先頭に立って取り組んでいる例がたくさんある。 
 ところが戦後の日本の場合は一人もいない。あれはマスコミが悪いというステレオ・タイプ的発想になっている。明治時代の経営者に比べ格が落ちた。公害裁判に敗北して、しかもみんなに批判されてシブシブ従うというのが大部分だ。 
 
問い:「社会的責任」が経営者の基本的行動様式になり得なかったのは、日本の産業風土の特殊性によるものか、それとも資本主義体制の本質的欠陥が出てきたものか。 
 堤:それに答えるのは、実はこわい。資本主義が社会的有用性をもっていたころはプラスの役割を果たした。しかし現在、資本主義の社会的役割は一段階を終えたのではないかというイヤな予感がする。新しい時代の資本主義に関するビジョンが生まれない限り、今日みられるデメリット(欠陥)が出続ける危険性がある。公害、インフレ、資源問題などがそのデメリットで、これはケインズ経済学の破産にもつながっていく問題だ。 
 公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されているわけだ。しかしアダム・スミスを読み直してみると、スミスさえ、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制などの必要を強調している。どうも日本のえらい方は、自己流にスミスを読み違えているとしか思えない。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される。 
 問い:どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。 
堤:その前提として国家の質をどうみるかだ。経営者は今の政府を明治の絶対主義政府という観念でしかみていない。常に自由を束縛する国家観しかないわけだ。しかしいまの国家は「市民社会のための装置」という認識をもつべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民社会のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。そして介入の仕方、分野、度合いについて介入を認める立場で注文をつけていく。 
 
<安原の感想>「市民が主役」を取り戻すとき 
 国家は「市民社会のための装置」という認識は今日の日本社会に浸透しているだろうか。現実はまるで逆ではないか。特に自民党の安倍政権が誕生してからは、むしろ「国家のための装置」として機能しつつある。そこでは平和・反戦と人権重視の現行憲法の理念は無視ないし軽視されている。軍事力行使も辞さないという姿勢すらうかがわせている。 
 40年前の堤発言は、いま、読み返してみると、今日の日本政治の姿を予見していたかのように受け止めることもできる。市民が主役の「市民社会のための装置」という認識を取り戻さなければならない。そのためには安倍政権に一日でも早く引導を渡すときである。 
 
(2)経済界は没落の一途 
問い:介入する側の官僚と介入される側の経済界との間にギャップがあるのではないか。 
 堤:市民社会のための政府であるべきだという意識で行動しているまじめな官僚は、最近の経済人の行動は理解できないのではないか。意識の面での両者の間のギャップは広がりつつある。しかも経済界は大衆からも見放されているのだから、これでは経済界は没落の一途をたどっていることになる。 
 問い:自民党単独政権が長すぎるという意見は財界にも出ている。政権交代が必要だとは思わないか。 
 堤:いい悪いは別にして、政権は必ず交代するものだ。世界史をみても100年も一つの政党が政権の座についていたことはない。変わるのが当たり前だ。必然だ。ただ変わり方にいろんなのがある。 
 
 問い:自民党は国民の過半数の支持をすでに失っている。事実上保革逆転しているという見方は財界のなかにもある。つまり資本主義体制の守護者である自民党に対する国民の批判が強まっているわけで、このことは利潤追求を第一目的とするいまの資本主義体制そのものの是非が問われていることを意味するとは考えないか。 
 堤:利潤それ自体が原則的に悪だとは思わない。何のために利潤を追求し、どういう方法で利潤を追求するか、この二点で利潤追求行為が悪であるかどうかが決まってくる。昔は利潤追求が経済の発展に役立ち、国民がこれを支持した。しかしいまは利潤追求の仕方が他の社会生活の分野をおかす場合には悪になっている。経済発展が国民の期待の最大公約数ではなくなっているからだ。 
 問い:自民党の宮沢喜一氏は、「自由主義経済を死守する」といっている。どう思うか。 
 堤:いまの体制を死守するというのは白虎隊と同じでロマンチックだけれども、問題はどういう体制にしなければならないかだ。第一次資本主義体制とでもいうべきこれまでの体制は変わらざるをえないでしょう。経営者も体制が変わることを率直に認めていかねばならない。死守される体制の方が迷惑するのではないか。 
 問い:新しい体制はどういうものになると考えるか。 
 堤:古典的資本主義はどこの世界にもない。米、英、仏、西独など各国いずれも特性を持っており、したがって典型的な新しい第二次資本主義体制というものはないと思う。日本も歴史、風土に合わせて経済運営が円滑に行われて国民のニーズに応えられさえすれば、これが資本主義であるかどうかわからなくなってもよい。 
 
<安原の感想>行方定まらぬ日本資本主義 
 自民党単独政権の末期、自由主義経済=資本主義体制そのものはどうなるのか、に関心が集まりつつあった。その一つは自民党・宮沢喜一氏(蔵相、首相を歴任)の「自由主義経済死守」論である。「死守」論に批判的姿勢で終始したのが堤氏で、「資本主義体制は変わらざるを得ない」と論じた。「死守される体制の方が迷惑する」と冷ややかでもあった。この考えは宮沢流の「死守」論とは180度異なっている。 
 
 さて日本経済の現状はどうか。右翼的色彩の濃い安倍政権の登場とともにアベノミクス(大胆な金融緩和、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略ーの「三本の矢」)という名の経済運営に転換した。しかし例えば大量の非正規労働者群をどう削減していくのか、その展望はみえない。恵まれない大衆への熱い関心は希薄のように見受けられる。安倍首相は政治家というよりは支配者・統治者の心情なのだろう。これでは経済の活性化もままならない。行方定まらない日本資本主義というほかない。 
 毎日新聞社説(1月16日付)は春闘に関連して「若年層を中心にした非正規雇用の低賃金と生活不安の改善は急務」と主張した。賛成したい。 
 
*「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です 
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