2014年02月18日10時15分掲載
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政治
集団的自衛権の行使容認に反対 メディア、弁護士集団の主張は 安原和雄
日本は歴史的な大きな岐路に差しかかっている。安倍首相の乱暴な姿勢が浮かび上がってくる。いや、正気とは思えない所作が突出さえしている。集団的自衛権の行使容認になりふり構わぬ意気込みである。戦争屋へ向かって一直線という風情さえ感じさせる。
明言しておきたいが、集団的自衛権の行使容認にはどこまでも「反対」の姿勢を打ち出すほかない。どうやら安倍首相は「独裁者」を自任しているのではないか。とんでもない思い上がりと言うべきである。安倍路線に対して新聞などメディアの批判力、さらに正義を貫く弁護士集団の対抗力が期待される。その主張に心ある多くの国民大衆の願望が集まっていることを忘れないようにしたい。
▽ 新聞社説は集団的自衛権をどう論じているか
社説の大意を紹介し、安原のコメントをつける。なお以下の「*憲法解釈変更をめぐる議論」などの小見出しは安原が付した。
(1)毎日新聞社説(2月12日付)「集団的自衛権の行使 今は踏み出す時でない」
*憲法解釈変更をめぐる議論
集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更をめぐる議論が、国会で始まった。安倍政権は集団的自衛権を行使できるとした上で、政権の政策判断や関係する法律、国会承認によって歯止めをかけ、限定的に行使する方針を今国会中にも閣議決定するとみられている。
しかし、安倍政権の外交姿勢や歴史認識を見ていると、いったん集団的自衛権の行使を認めてしまえば、対外的な緊張を増幅し、海外での自衛隊の活動が際限なく拡大され、憲法9条の平和主義の理念を逸脱してしまうのではないか、との危惧を持たざるを得ない。
<安原のコメント> 「今は」への懸念
社説の見出しとなっている「集団的自衛権の行使 今は踏み出す時でない」の「今は」の表現に懸念を抱かないわけにはいかない。なぜ「集団的自衛権の行使 踏み出すべきではない」と期限つきではなく明示できないのか。「今は」の真意は何か。「やがて状況の変化のため集団的自衛権行使もあり得る」という含みを残しているのだろうか。
さらに末尾の「平和主義の理念を逸脱」への「危惧」は当然のことであり、だからこそ「集団的自衛権行使」は「今は」ではなく、「どこまでも」批判しなければならない。
*「積極的平和主義」という基本理念
私たちは、冷戦期とも冷戦後とも異なる複雑な時代を生きている。2010年代に入って中国の経済的・軍事的な台頭が顕著になり、米国から中国へのパワーシフト(力の変動)が進行している。日本や国際社会を取り巻く脅威の内容も大量破壊兵器や弾道ミサイルの拡散、テロ、サイバー攻撃など多様化している。
こうした安全保障環境の変化を踏まえ、安倍政権は、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」を基本理念に掲げた。積極的に国際社会の平和と安定に寄与することにより、日本の平和と国益を守るという。集団的自衛権の行使容認もそのために必要なことだと位置づけられている。
安保環境変化への安倍政権の問題意識は、私たちも理解する。日本が集団的自衛権を行使することで、朝鮮半島有事への効果的対応が可能になる側面はあるだろう。安倍政権には中国の軍備拡張や海洋進出に対する日米同盟の抑止力を強化する狙いもあるようだ。
だが、さまざまな観点から私たちは、集団的自衛権の行使容認に今踏み出すべきではないと考える。
<安原のコメント>集団的自衛権行使容認は疑問
「日本が集団的自衛権を行使することで、朝鮮半島有事への効果的対応が可能になる側面はあるだろう」という上記社説の指摘は曖昧である。これでは「理解しながら批判するという曖昧な姿勢」がやがて「容認」へと前のめりになっていく懸念を否定できない。集団的自衛権行使を容認する安倍政権を徹底的に批判する必要がある。そうでないと新聞メディアの弱腰が戦前の昔、戦争体制の大政翼賛会に引きづり込まれていった、あの悲惨な歴史的現実を再現させる恐れがある。多くの犠牲者を出した受け容れがたい歴史を繰り返してはならない。
*安倍晋三首相の私的懇談会の議論
集団的自衛権行使が想定される具体例として、公海上で自衛隊艦船の近くで行動する米軍艦船の防護、米国向け弾道ミサイルの迎撃、シーレーン(海上交通路)の機雷除去、周辺有事の際の強制的な船舶検査(臨検)などがあがっている。「今の憲法解釈のままでは、こうしたこともできない」事例として集められたものだ。
だが現実には、これらの活動だけを限定して行うのは難しい。戦闘地域で機雷除去や臨検を行えば、国際法上は武力行使と見なされる。他国軍から反撃され、双方に戦死者が出ることも覚悟しなければならない。
地理的な範囲に制約がないことも問題だ。日本近海や朝鮮半島の有事だけでなく、ハワイやグアムの米軍基地が攻撃されたり、南シナ海のフィリピン沖で紛争が起きたりした場合にも、米軍とともに戦うことが可能になる。海外派兵を禁じてきた憲法9条は骨抜きになるだろう。
<安原のコメント>憲法9条骨ぬきに性根を据えて対処を
安倍首相の狙いは、社説が指摘しているように平和憲法を骨抜きにすることにある。ずばりそれを狙っていると言わざるを得ない。つまりは海外派兵を禁じてきた憲法9条の骨抜きにほかならない。具体的には日本近海、朝鮮半島にに限らず、ハワイから南シナ海のフィリピン沖に至るまで自衛隊の海外派兵によって米軍とともに戦うことが可能になる。「平和日本」から「戦争ニッポン」への質的変貌である。この質的転換をどう阻止していくか、反戦と平和、そしてささやかな幸せを希求する日本国民の力量が試されることになるだろう。性根(しょうね)を据えて対処するときである。
(2)朝日新聞社説(2月15日付)「集団的自衛権 聞き流せぬ首相の答弁」
*首相はあまりにも乱暴だ。
安倍首相の「立憲主義」や「法の支配」への理解は、どうなっているのだろうか。
集団的自衛権をめぐる国会審議で、こんな疑問をまたもや抱かざるを得ない首相の答弁が続いている。
日本国憲法のもとでは集団的自衛権の行使は認められない――。歴代内閣のこの憲法解釈を、安倍内閣で改めようというのが首相の狙いだ。
歴代内閣は一方で、情勢の変化などを考慮するのは当然だとしつつも、「政府が自由に憲法の解釈を変更することができるという性質のものではない」との見解を示してきた。
この矛盾にどう答えるか。野党議員からの問いに、安倍首相は次のように答えた。
「(憲法解釈の)最高の責任者は私だ。政府答弁に私が責任をもって、そのうえで私たちは選挙で国民の審判を受ける。審判を受けるのは、内閣法制局長官ではない。私だ」
最高責任者は、確かに首相である。内閣法制局は、専門的な知識をもって内閣を補佐する機関に過ぎない。
それでも法制局は、政府内で「法の番人」としての役割を果たしてきた。首相答弁はこうした機能を軽視し、国会審議の積み重ねで定着してきた解釈も、選挙に勝ちさえすれば首相が思いのまま変更できると言っているように受け取れる。
あまりにも乱暴だ。
<安原のコメント>「乱暴な首相」という表現はまだ控えめ
「大胆な首相」なら評価、尊敬にも値するが、「あまりにも乱暴」という形容は歴代の首相のなかで初めてではないだろうか。とんでもない首相を登場させたものである。「乱暴な首相」登場の背景には小選挙区制という衆院選挙制度の歪みがある。今の小選挙区制では民意を正しく反映させることはできない。先の総選挙(2012年)では自民党は43%の得票で、なんと79%の議席を確保した。これで自民党は圧勝し、第2次安倍政権が発足した。こういう選挙制度の歪みに悪乗りして安倍政権は身勝手にして乱暴な振る舞いを止めようとはしない。「乱暴な首相」と言う表現はまだ控えめと言うべきである。
*民主主義をはき違えている
首相の言うことが通るなら、政権が代わるたびに憲法解釈が変わることになりかねない。自民党の党是である憲法改正すら不要ということになる。
首相はまた、解釈変更の是非を国会で議論すべきだとの野党の求めも一蹴した。解釈変更は政府が判断する、その後に必要となる自衛隊法などの改正は国会で議論するからいいだろうという論法だ。
ここでも議論が逆立ちしている。集団的自衛権の行使容認は本来、憲法改正手続きに沿って国会で議論を尽くすべき極めて重いテーマである。
選挙で勝ったからといって厳格な手続きを迂回(うかい)し、解釈改憲ですまそうという態度は、民主主義をはき違えている。
一連の答弁から浮かび上がるのは、憲法による権力への制約から逃れようとする首相の姿勢だ。そのことは、こうした立憲主義を絶対王制時代に主流だった考えだと片づけた先の発言からもうかがえる。
これでは、首相が中国を念頭にその重要性を強調する「法の支配」を、自ら否定することになりはしないか。
<安原のコメント>「憲法による権力への制約」から逃れる安倍首相
「民主主義をはき違えている」、「政権が代わるたびに憲法解釈が変わる」、「憲法の解釈変更は政府が判断する」、「法の支配を自ら否定する」など一連の首相の言動は政治家としての正常な感覚とはかけ離れている。まさに「憲法による権力への制約」からいかに逃れるかが首相の信念、行動原理となっているらしい。日本は「戦争放棄などを掲げる平和憲法」を誇りとする世界でも数少ない先進的な国柄であったはずだが、安倍首相は金銭には換えがたいこの誇りをいとも簡単に投げ捨てようと画策している。世界の疑惑を招きつつあることに首相は気づこうともしない。
▽ 集団的自衛権の行使容認に反対する日本弁護士連合会決議
決議の全文を以下に紹介する。
武力紛争が依然として絶え間ない国際社会において、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して国際的な平和を創造することを呼びかけた憲法前文、そして戦争を放棄し戦力を保持しないとする憲法第9条の先駆的意義は、ますますその存在意義を増している。
当連合会は、2005年11月11日の第48回人権擁護大会における「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」、そして2008年10月3日の第51回人権擁護大会における「平和的生存権および日本国憲法9条の今日的意義を確認する宣言」において、集団的自衛権の行使は憲法に違反するものであり、憲法の基本原理である恒久平和主義を後退させ、全ての基本的人権保障の基盤となる平和的生存権を損なうおそれがあることを表明した。
集団的自衛権とは、政府解釈によると「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」である。これまで政府は、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないとしてきた。
ところが、現在、政府は、この政府解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しようとする方針を打ち出している。また、議員立法によって国家安全保障基本法を制定しようとする動きもある。
しかしながら、自国が直接攻撃されていない場合には集団的自衛権の行使は許されないとする確立した政府解釈は、憲法尊重擁護義務(憲法第99条)を課されている国務大臣や国会議員によってみだりに変更されるべきではない。また、下位にある法律によって憲法の解釈を変更することは、憲法に違反する法律や政府の行為を無効とし(憲法第98条)、政府や国会が憲法に制約されるという立憲主義に反するものであって、到底許されない。
戦争と武力紛争、そして暴力の応酬が絶えることのない今日の国際社会において、日本国民が全世界の国民とともに、恒久平和主義の憲法原理に立脚し、平和に生きる権利(平和的生存権)の実現を目指す意義は依然として極めて大きく、重要である。
よって、当連合会は、憲法の定める恒久平和主義・平和的生存権の今日的意義を確認するとともに、集団的自衛権の行使に関する確立した解釈の変更、あるいは集団的自衛権の行使を容認しようとする国家安全保障基本法案の立法に、強く反対する。
以上のとおり決議する。
2013年(平成25年)5月31日
日本弁護士連合会
<安原のコメント>集団的自衛権の行使容認に反対
日本弁護士連合会は、なぜ集団的自衛権の行使容認に反対するのか。集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」を指している。このような集団的自衛権の行使が日本として許されないと考えるのは正しい。その理由として日本弁護士連合会決議のなかの以下の視点を重視したい。
「戦争と武力紛争、そして暴力の応酬が絶えることのない今日の国際社会において、日本国民が全世界の国民とともに、恒久平和主義の憲法原理に立脚し、平和に生きる権利(平和的生存権)の実現を目指す意義は依然として極めて大きく、重要である」からである。平和憲法の理念をどう生かすかに世界が注目している。
*「安原和雄の仏教経済塾」からの転載
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