2014年02月25日13時21分掲載
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文化
【核を詠う】(143)『角川短歌年鑑』の「作品点描」(平成24〜26年)から原子力詠を読む(3)「原発なき未来を語る人のをりグラスの氷ゆびでつつきて」 山崎芳彦
「角川短歌年鑑」の直近3年(平成24〜26年版)に収載の「作品点描」に取り上げられた原子力詠を読んできて今回が最後になるが、主として平成23年の3・11福島第一原発の壊滅事故によって引き起こされた災害にかかわって、福島はもとより全国の歌人、詠う人々が、さまざまな視点から詠った作品の、おそらくは極めて限られた一部を読ませていただいたことになる。3・11から3年、東北の被災からの復興は人々の苦しみから考えれば道遠しと言うべき状況であり、とりわけ福島第一原発事故による災害は、事故収束への見通しが立たないまま10数万人の人々が避難生活を強いられ、原発立地周辺地域の一部は核放射能の脅威により人が生活し、共同体を形成し、人間の歴史をつないでいくことができない「異界」にされようとしている。
そのような中で歌人が詠い、積み重ねてきた作品を読んでいるのだが、これからさらに詠う人びとはより深く、より広く、より多彩に、さまざまな視座、視野から、生活の現実や自身および他者の存在の把握や対象化、感受によって短歌表現を続けていくことになるに違いない。筆者も読む、詠むものの一人として意識的に、原子力、核の問題に向かい合いたい。
「角川短歌年鑑平成26年版」の巻頭には「歌壇展望」欄を置いているがその中に伊藤一彦氏が「他者への想像力―ゆるきやらのわれわれ」と題する評論を書いている。その中で氏は、東日本大震災はずっと続いている、避難生活を強いられている人は数多く、原発事故の収束は見通しがつかないままである、東日本大震災の後、これまで経験したことのない異常気象による災害が増えている、ことを挙げ「痛ましいニュースに私たちは日々出会っていると言っていい。おのずから関心が災害にむかう。」ことから、災害を論じた本を何冊か読んだことを述べている。
そしてその中の一冊『津波、噴火・・・日本列島 地震の2000年史』(朝日新聞出版)に収載されている吉見俊哉氏(東京大学大学院教授・社会学)の所論「災害とメディア」から、次の部分を引用している。(筆者は原文に当たっていないので伊藤氏の引用を孫引きさせていただく。)
「その戦後50年間のちょうど真ん中の70年代前半に原子力発電所が次々に誕生し、その原子力利用によって、私たちは電気の溢(あふ)れる社会を享受してきました。核兵器と原発が々コインの表と裏でしかないことに、気がつかないふりをして、またアジアでは戦時が続いていることを顧みることなくアメリカ型の大衆消費社会を享受してきたわけです。
そして、阪神・淡路大震災、オウム真理教事件が起きた95年を転換点として、平和で豊かな時代が崩壊する過程が始まります。そして2011年の東日本大震災が起きました。
私は、現在を、約半世紀続いた『長い戦後』の崩壊過程にあると受け止めています。3・11を経験した私たちは『復興』のかけ声のもと、その50年間と同じことを繰り返すのでしょうか。戦後そのものを問い返して、転換していく回路を見つけるべきです。」
伊藤氏は、「『長い戦後の崩壊過程』という認識に、容易ならぬ課題を私たちは突きつけられているのだと改めて思う。」という時代認識、現状の受け止めをし、「東日本大震災のあと、『戦後』でなく,『災後』という言葉を使うべきだと言っていた人がある。しかし、三・一一から二年あまりしか過ぎていないのに、その『災後』の意識が薄れていないかどうか。」をみずからをも含めて問い、この間に詠われた短歌作品を引きながら「他者への想像力」について述べている。
▼「マスクしてみな梟のやうに黙って 前代未聞もつぎつぎ忘る」(米川千嘉子)
を読んだ伊藤氏は、「『前代未聞もつぎつぎ忘る』と言われてドキッとした。自分のことを言いあてられたと思ったからである。情報の氾濫もある。生活の多忙感もある。だが、根本は災害に遭った人たちへの想像力に欠けているからではないのか。そう自問自答せざるを得なかった。」と率直に述べている。
そのほか、米川作品を多くひきながら「他者への想像力」に関わって、氏の時代認識を踏まえて、読んでいるのだが、改めて「詠む」と「読む」、作者と読者の薄っぺらな、あるいは馴れ合いの関係が短歌界にはびこるようなことがあっては、例えば原子力を詠う作品、震災を詠う作品についても、時代、社会、人間、未来、世界を引き受けて詠い続けることは叶わないことになると感じさせられた伊藤氏の論点は貴重だと思った。
伊藤氏がこの「他者への想像力」の中で取り上げている作品には米川作品が多く、それぞれについての伊藤氏の「読み」に共感したり、触発されたが、その米川氏の作品と、伊藤氏の評言を記してみる。
(1)「線路内に人が落ちた」といふ言葉 だれかの絶望は隠すべし
(伊藤氏は「この歌の場合、線路に人が飛び込んだのに違いない。しかし『人が落ちた』という言い方で飛び込まざるを得なかった人の『絶望』を覆い隠そうとしている。想像を働かせまいとしている。『みな梟のやうに黙って』いるのである」と読んでいる。)
(2)富士よ富士こんなに人は悲しいといへば見せたり宝永噴火の跡
(伊藤氏は米川が「宝永噴火の跡」<「短歌研究」25年1月号に発表>の一連の冒頭にこの作を置いたことは「災害に対する強い問題意識を示している。」と言う。)
(3)だれも他人(ひと)の運命を生きることできず匂ひのない瓦礫の映像を見る
(4)灯らない地下街をゆくうちがはの暗い<わたし>をそれぞれ灯し
(5)絶句する人になほ向くマイクあればなほ苦しみてことばを探す
(3〜5は米川歌集『あやはべる』<平成25年の迢空賞受賞>に所収の作品だが、同歌集について伊藤氏は「『災後』の問題提起に満ち、そのため苦悶をはらんだ歌集だった」と評し、また上記3首について「『他人<ひと>の運命』に想像力を働かせようとしている歌である。」と読んでいる。)
(6)変はってしまって何も変はってゐない国新幹線はすーつと発つが
(伊藤氏は「吉見氏の言葉で言えば、『戦後そのものを問い返して、転換していくべき回路を見つけるべき』であるのに、『何も変はってゐない国』を歎いている。三・一一がなかったかのごとき政治家の言動が目立ってきた」とこの歌について語る。)
(7)ワスレグサ属ワスレグサ科のワスレグサ日本を埋める初夏の黄
(「精いっぱいの皮肉をこめてこう歌っている」と伊藤氏は言う。)
さらに伊藤氏は吉川宏志歌集『燕麦』(前川佐美雄賞を受賞、この歌集についてはこの連載の中でも読んだ。筆者)について、「原発事故をテーマにして多く歌っている。」として次の吉川作品5首を取り上げている。
(1)原子炉ははるかにあれど大海の青きひかりに何も見えない
(2)エネルギー喪いて国の死にゆくを個人の死より恐れ来たりつ
(3)貧しきを原子炉に働かせいるさまを貧しからねばテレビに見たり
(4)顔を淡く消されていたり原子炉に働きし人はテレビに語る
(5)誰か処理をせねばならぬことそれは分かる私でもあなたでもない誰か
この吉川作品を挙げて、伊藤氏は次のように言う。
「私たちに『見えない』原子炉の内部で働いている人たちに想像力を働かせている作品を引いた。事故処理をどう行うか、廃炉にどう持っていくか、『誰か』がその仕事の任務を果たさなければならないことを吉川宏志は歌っている。」
大切な視点であろう。
原子力の問題を、いま私たちがどのように人間として生きていくか、大きな時代的歴史的視点とともに時間・空間のすみずみにまで思いを行き届かせ、見えない、触れられない、聞こえないことをも意識的に感受し、向かい合う課題の重要なひとつとしてとらえ、表現と生きる営為の緊張感を持たなければと思う。
角川短歌年鑑の「作品点描」に取り上げられた原子力詠を、直近3年の年鑑から読ませていただいてきたが、今回で終ることになる。
○角川短歌年鑑平成26年版の「作品点描」から抄出○
◇作品点描3 前川佐重郎◇
▼断崖に立ちて見下ろす深淵にいま核残滓一万七千トン
人類はどのように変化しているか二十万年核保管して
電力が大事といえば誰もうなずきそして原発とねじ曲げられて
月からの地球はまだら模様にて人間の住むものと思えず
衛星は地球の夜景を撮りてゆく電力消費まざまざとして (水野昌雄)
▼憲法も被災者の生活もなほざりに明けても選挙暮れても選挙
(来嶋靖生)
▼列島の原発すべて停止せるこのしづけさよとこしへにあれ (武田弘之)
▼地球深き芯のあたりの噴怒など科学を持ちても計りがたしも
(松坂 弘)
▼室温を二十八度に下げるため三十六度に敵愾心持つ (西村 尚)
▼草木国土悉皆汚染となりはてて人は仏性にめざむるならむ
(杜澤光一郎)
▼放射能汚染の肉であろうとも新鮮魚肉の刺身はうまい
福島のいわき市に一泊二日せり事故原発の空気を吸いて
命懸けの原発作業と知りつつも行かざるを得ぬ働く人等 (奥村晃作)
▼西空の虹を仰ぎて虹を追ふごとく朝より被災地めぐる
野生化をしたる家畜が自動車の灯に現れて人を恋ふとぞ
祖国をぞ追はれたるにも似るらんか無人の町に涙とまらず
火山島の湯のエネルギー人富(ひとと)ませ原発のなしアイルランドは
(秋葉四郎)
◇作品点描5 (川野里子)◇
▼福島にむきあう広島 ヒロシマとフクシマ 雨の八時十五分
たまたまにそこに雲の切れ間が・・・“Tallyho!”(見えたぞ)と声上げて標的に手動投下す (三枝浩樹)
◇作品点描6 (安田純生)◇
▼牛棄てて逃げて死なしめしくるしみに殺せとせまる残れる牛を
(阿木津 英)
▼三日も経てばみんなわすれるひとばかり住める国あり東の方に
(真鍋正男)
◇作品点描7 (浜名理香)◇
▼放射能汚染されたる鼠食べ生き伸びる猫ゐるか居るらむ (田宮朋子)
▼ふらここはしづかに垂れて原発のメルトダウン後も生るるみどりご
(渡 英子)
▼原発なき未来を語る人のをりグラスの氷ゆびでつつきて (栗木京子)
◇作品点描8 (松村正直)◇
▼夕ぐれに思へばオセロの白い石、原子力発電所島国かこむ
見るあたはず触るるあたはず原子炉にこころのやうな発熱つづく
(川野里子)
▼堂々と反原発を詠みたるに歌集を作る電気は別か
日本はものづくりの国電気とう血を断たれては街の枯れ果つ (岩井謙一)
▼焦げて死んでをればねずみが浴びたりし総線量をいふこともなし
ああ今夜もぺたぺたしゆるしゆるかりかりと触れをらむ原子力発電所
(米川千嘉子)
◇作品点描9 (藤原龍一郎)
▼棋士をを負かす人工知能つくる知も停止させえぬ原子炉あまた
(松村由利子)
◇作品点描10 (佐藤通雅)◇
▼死者の息貼り付く空の青白し時間が解決するといふ嘘
祐禎さんのふるさとである大熊をセイタカアワダチサウがおほえり
おほちちらねむる土なり放射性物質ふふむ土といふなり (本田一弘)
▼殺すこと勿れ殺さるること勿れ影踏んでひとり遊ぶ息子よ
車窓よりデモを見くだす人あればみひらきてわれの視線を返す
(大口玲子)
◇作品点描11 (大井 学)◇
▼凍み豆腐しみじみ軒に凍みゆかん星の夜祖母の仁丹におう
放射線量日々生真面目に計測す さすけねえ、とはかなしきことば
生きてゆく蛇のぬけがら枯草に隠れてうねる福島に雪 (齋藤芳生)
▼線量を見むと瓦礫を崩すときキティは落ち来 泥に染まりて
瓦礫より戻りて湯浴み保育所の前にも湯浴み何が落ちたる (黒瀬珂瀾)
次回から福島市在住の歌人・波汐國芳さんが編集発行人である季刊歌誌「翔」(「翔の会」発行)の第35号(平成23年4月24日発行)〜第46号(平成26年2月1日発行)から、原子力詠を読ませていただく。波汐さんにお願いをして頂戴した貴重な作品集である。 (つづく)
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