2014年09月12日23時03分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(163) 本田信道『歌ノート 筑紫から』の原子力詠を読む(3) 「フクシマを思ふ歌詠め、浅はかに足のとどかぬ淵に入るとも」 山崎芳彦

 本田信道『歌ノート 筑紫から』の原子力詠を読んできて、今回が最後になる。作者は九州・筑紫の地に在って東日本大震災・福島原発事故の被災地に深く思いを寄せ続け、詠い続けている。「過去形に放るなかれ原発のメルトダウン三基とはに見据えよ」、「フクシマを思ふ歌詠め、浅はかに足のとどかぬ淵に入るとも」、「フクシマを思ふ歌あれ、当事者のまことに迫る思ひの丈の」。福島を思い、原発について真剣に考えることは、離れた地に住んでいても、実は自身のこと、そしてこの国の現実とそこに生きる人々のことを思い、詠うことでもあると筆者は心打たれている。 
 
 福島県川俣町山木屋地区から、福島第一原発事故により避難を強いられ、一時帰宅した渡辺はま子さん(当時58歳)が、2011年7月1日に自宅の庭先で焼身自殺したことについて、夫はじめ遺族が「原発事故が自殺の原因」であるとして東京電力に賠償を求める訴訟を起こし、これに対して福島地裁(潮見直之裁判長)が8月26日に「はま子さんの自殺と原発事故の間には相当因果関係がある」として東電に賠償を支払うよう命じる判決を出し、東電が9月5日に控訴断念を明らかにしたことは、広く報道された。原発事故と自殺の因果関係について認めた司法の判断は初めてといわれるが、遺族にとって、この勝訴は「それでもはま子さんは帰ってこない」まことに哀しみ深いものであったろうと思われる。裁判中に東電側が故人を傷つける主張をしたことも多かったという。 
 
 福島地裁の判決は、故渡辺はま子さんの誕生から、その生活の歴史、人柄、地域の人々との関わり、家族との関係などについて、川俣町にしっかりと根付き、明るく、しあわせな人生を歩んでいたことを詳細に明らかにしつつ、その生活が原発事故によって一挙に突き崩され、はま子さんが生きる喜びや希望を失い、精神的にも、生活の具体においても不安と悲しみ、苦しみの中に追い込まれていった状況についても深く検証している。そして、はま子さんが一時帰宅し、一泊しての早朝に、かつて夫(幹夫さん)とともに植えた木の傍で焼身自殺した姿で夫に見つけられた事実を認定している。そのうえで、その自殺と原発事故の因果関係について、要旨次の通り判断を下した。 
 「はま子は地域住民とのつながりの場としての自宅、生活の基礎全てを相当期間にわたって失った。仕事を失い、帰還の見通しも持てなかった。原発事故によって強いストレスを生む出来事に次々と遭遇したことがはま子に堪えがたい精神的負担を強いて、うつ状態に至らしめ、自死の実行に及ばせたと認めるべきだ。」 
 「東京電力は原発が事故を起こせば住民が避難を余儀なくされることが予見できた。また避難者がストレスを受けて精神障害を発病し、自死に至るものが出ることも予見できた。はま子の自死と事故の間には、相当因果関係がある。」 
 「はま子の脆弱性を考えても、事故によるストレスが自死に寄与した割合は8割と認めるのが相当だ。山木屋での静かな暮らしを続けたいという望みは、原発事故によって断たれた。58年余の間、生まれ育った地で自ら死を選択した精神的苦痛は容易に想像し難く、極めて大きなものだったことが推認できる。」 
 判決は、約9100万円の賠償請求額に対して東電が約4900万円を支払うよう命じるものだった。 
 
 この福島地裁の判決を読みながら、筆者は福井地裁が去る5月21日に出した大飯原発運転差し止め請求事件判決について思い起した。関西電力に大飯原発の運転差し止めを命じた画期的な判決であったが、その判決理由において、 
 「ひとたび深刻な事故が起これば多くの生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存権を基礎とする人格権が公法、私法を問わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている・・・」。 
 「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてこれを超える価値を他に見出すことはできない。」 
とする明確な立場を基礎にして、大飯原発の運転差し止め命令を下したのであった。その判決の中では、「福島原発事故においては、15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数をはるかに超える人が命を縮めたことは想像に難くない。・・・」とも述べていた。 
 福島地裁の今回の判決は、「大飯判決」と重なる貴重なものであろう。 
 
 福島原発事故はいまもまだ続き、多くの人々に苦難を与え、さらなる不安と理不尽極まりない犠牲を強いている。原発事故後の福島県内の自殺者数は、事故後増加し、年を経るごとにその数を増している。放射線被曝による健康被害についても、特に小児甲状腺がんをはじめ、不安は続く。 
 福島原発事故について、いま、本質的に何事も解決していない。現に危険な状態のまま事故原発はその実態がどうなっているのかもわからぬままあの場所にあり、使用済み核燃料や高濃度放射線汚染物質が滞留しているし、放射線汚染水の垂れ流しが続いている。数十年単位では処理できないだろうとみられる廃炉作業についても、安全に推移する保障はない。 
 それらのことを踏まえて、福島原発事故がもたらしている様々な問題に真剣に、人格権の尊重を基本に取り組まなければならないし、原子力社会からの脱却を目指して、一つ一つの課題の解決に向かわなければならないはずだが、いま、政府、原子力関連企業をはじめ原発推進に向かう勢力は原発再稼働のみならず新増設へのたくらみ、さらに海外への輸出戦略を展開している。戦争をする国へと目指す政策を進める政府とその同調者たちにとって、人びとの平和で安全な社会を求める声は聴くべき声ではないのだろう。 
 「放射線安全神話」を広げ、「放射線による健康に対するリスクは禁煙や肥満解消などのリスク軽減によって置き換えられる。」などという詐欺的と言える「専門家」による言説、「除染の効果には限界があるのに見合って許容線量基準を打ち出すべき」とさえ言う。地球的歴史の中で存在する自然由来の放射線と理不尽に強制される人工核放射線被曝を「シーベルト」「ベクレル」の単位で一緒くたにする学者の宣伝、「放射線のリスクコミュニケーション」なる様々な手法と「理論」、科学や医学の名のもとに繰り広げる嘘八百は、すべて政府・原子力利益勢力によるものだが、人びとからの血税や電気料金を使っての「言い放題」を憎む。 
 
 しかし、本田信道さんのフクシマを思い心を寄せる、そして自らのこととして詠う作品は、その一途さから生まれるひびきと力を広げる。短歌界にとどまらないひびきである。 
 
 
 ◇第三章 抄2◇ 
 (長歌) 
 わが裡の 同情憐憫 うち払ひ 憚りつつも 親しげに さらに二人のSさんを 訪はむとゆけば 信夫山 歩かう会の 老若の 声音を高く 上りゐて 秋の木洩れ日 物故者の 霊かと紛ふ 寺庭の 既に除染の 
安堵とて 蕗の煮付を いただくに さらりと聞ける 愕きの 「線量オーケー」 日常とし 近き祖先に 遠き祖も 無縁の霊とて 彼我のなく 大日如来の 御前に はての筑紫の おもひを捧ぐ 
 (反歌 4首) 
 ふくしまを訪ふといふこと 悲しさは言はず会ひてぞ語りはてたる 
 
 かへりみる歳月なべてうるはしと君の哀しむうつつフクシマ 
 
 春・秋の彼岸と夏の法要に思ひ託して真言誦す (合掌) 
 
 フクシマを思ふ歌とて詠みがたく福島訪うていよいよまどふ 
 
とし明けて立ち戻るとき線量の凄みを思ふ、君の住む里 
 
福島にフクシマあれば大わらぢ願ひの宮へ担がれ上る (信夫三山詣り) 
 
地区ごとの線量推移を記載して福島民報に続くにちにち 
 
放射能除染廃棄物貯蔵地の二町にしぼらる、二町の苦渋 
 
 ◇第四章 抄◇ 
原発を、線量を恐れ、フクシマに帰還叶はぬ四回忌の来 
 
原発をベースロードといふ政権 何をあざむき日本語使はぬ 
 
ブラボーの核の傷痕六〇年 これより始まるフクシマ六〇年 
 
原子力平和利用の六〇年 プルトニウムの利用といふも 
 
核のゴミ一〇万年の寿命とぞ研究進まぬ「もんじゅ」の泥沼 
 
線量を放射線量とふんべつし馴らされゆくは我の不覚や 
 
福島民報に日々掲載の放射線量、数値の重み、日々なる重み 
 
安全神話壊れ果てたる只中に「コントロール」を誰の宣らさる 
 
フクシマを思ふ歌詠め、浅はかに足のとどかぬ淵に入るとも 
 
フクシマを思ふ歌あれ、当事者のまことに迫る思ひの丈の 
 
フクシマに恋ふ歌詠まむ 自動詞のおもひ募らす心根知れば 
 
うつくしま福島フクシマ愕きの美原凍子の「負苦島」に凍る 
 
福島にベクレざるもの探すとふ高木佳子の使ふ「ベクレる」 
 
切実なる母性をいだき西方へ出でたる万智には万智の哲学 
 
被災者と呼びて詠むとき既にして傷つけをらむ、われは貧しく 
 
短歌とふ詩型はでんと在り続く祈りにかよふ願ひを湛へ 
 
加速する風化をなげく歌あれば愛の毀れを繕ふ愛あれ 
 
みよがしに言葉は踊り絆にも何か足らざる寒ぶりかへす 
 
よりてゆく心あらねばとめどなく風化にくだる絆を恐る 
 
 『歌ノート 筑紫から』の原子力詠を読んできた。作者本田さんの福島に寄せる思い、福島原発事故による核放射線の中で日々を生きる人々の具体に届く把握の確かさには敬服する。短歌を通じてのつながりを福島の人と持っていることもうかがい知れる。 
 
 同書の序歌と「あとがき」の歌を最後に記す。 
 序 同情も憐憫もなき同心を裡にささげておもふ福島 
 
 あとがき 願ふがに祈りつつにぞ祈るがに願ひゆくべき 吾は小さく 
 
 次回からも原子力詠を読み続ける。          (つづく) 


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