2014年11月16日19時19分掲載
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ミハイール・バフチーン著「フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化」
現代では季節の祝祭は衰退の一途をたどっている。しかし、ミハイール・バフチーンは「フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化」の中で、祝祭の持っていた意味についてラブレーの作品をもとに触れている。
フランソワ・ラブレーの「ガルガンチュア」や「パンタグリュエル」を読めば、その世界が途方もない祝祭的な笑いの世界であることがわかるだろう。そのためラブレーの作品群はルネサンス以後、古今東西、多くの文人・芸術家の精神的な活力の源泉となってきた。その根っこには種まきから収穫まで四季を重要な要素とする農業を基盤とした世界観がある。毎年繰り返される生命の誕生と死が契機となっている。生物は死を前にしたらご破算なのだ。
「祝祭は常に<時>と本質的な関連を持っている。その根底にはいつでも、自然の(宇宙的な)、あるいは生物学的な、あるいは歴史的な<時>についての明白な具体的な概念がある。その上、祝祭は、その歴史的発展のすべての段階で、自然、社会、人間の生活における危機的な、変革の時期と結びついている。死や再生、交替と革新の時期は常に祝祭的世界観へと導いたのである。正にこれらの時期が−特定の祝祭に具体的な形式で−祝祭特有のお祭りらしさを創り出したのであった。」
バフチーンは中世の民衆は教会や国家による秩序の世界と、その反対側の第二の世界とを持っていたという。第二の世界の核にあったのは祝祭と笑いの文化だ。公式の世界の裏側に、無礼講の世界があり、後者がラブレーの世界だった。ここでは表の世界の上下の秩序も反転される。少なくともそのような精神の活気がある。だからだろう、彼の文学が存続してきたのは。それが民衆のパワーの根源でもある。だが、支配層は祝祭を換骨奪胎して、そこから政治性を取り除きたい。そしてその支配を表も裏も一元的にしたい・・・これが現代の地獄を創りだしている精神である。
「すべて公式的なるものの向こう側に第二の世界、第二の生活を打ち立てていたのであって、中世のすべての人々はその世界に多かれ少なかれ加わり、その中で、ある一定の期間は生活をしたのである。これは特殊な世界の二重性であって、このことを考慮にいれなければ中世の文化意識も、ルネッサンスの文化も正当に理解することはできない。中世の笑う民衆を無視し、あるいは過小評価すれば、ヨーロッパ文化の、次に来るすべての時代の歴史的発展をゆがめることになる。」
日本の民衆がパワーダウンしているとしたら、それは社会が祝祭性を失い、世界の秩序が表も裏もがっちりと同じ支配層に握られつつあるからであろう。と同時に、農業が衰退し、四季の命のサイクルが暮らしから希薄になっていること、さらに言えば死が見えなくなっていることにあろう。
■「フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化」(川端香男里訳:せりか書房)
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