2015年01月05日13時17分掲載
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コラム
【編集長妄言】(再録) 花や果樹をつくったら「非国民」の時代があった 大野和興
戦後70年が経ちました。1940年、皇紀2600年生まれで、敗戦前後の飢餓の時代を山村で過ごし、多くの同世代が栄養失調で死にました。農業記者としてむらを歩き始めてほぼ50年が過ぎました。むら歩きを続ける中で、いろんな方と出会い、話を聞きました。いまの印象に残っているのは、戦争最中の農村、いわゆる銃後農村の話です。
◆腹の足しにならないものはつくらせない
1939年ごろから食糧難の兆候が始まっていました。この年、米穀配給統制法が公布され、ネオン禁止、中元・お歳暮の贈答廃止などが打ち出されました。その影響はすぐに農村に及び、農業生産への規制が始まります。各地でよく聞いたのは、桑畑に桑を引き抜かされ、いも畑に変えさせられた話です。当時、養蚕はコメと並ぶ農業の二代作物で、農家経済を支ええいました。しかし、カイコや生糸は食べられません。強制的に腹の足しになる作物への転換が進められたのです。これに逆らうと「非国民」として糾弾され、青年団を使っての見回りなど、住民が住民を監視する制度もつくられました。
この傾向が一層強まるのは、1941年に農業生産統制令が公布されて以降です。青森のリンゴ地帯や房総の花農家でお聞きした話は、今も頭に残っています。
1943年のこと、場所は、背後に岩木山を控えた津軽平野の村、当時船沢村といった。6月、田植えとリンゴの袋かけが重なり、農家は急がなければならない袋かけを優先した。その翌日、警官隊が村を急襲、農民約30人を生産統制令違反で検挙した。
◆そのうち有機農業も「非国民」に
この事件は地元の新聞『東奥日報』でも、「田植えせず林檎の袋かけ」という見出しでかなり大きく取り上げられています。この事件が起こる伏線はありました。この年3月、青森県は、農業生産統制令に基づいて新植リンゴ約1000町歩の伐採を勧奨していました。
戦前から花栽培が盛んだった房総半島では、花の苗や球根の焼却や栽培中の花の抜き取りが強制されました。花づくりが再開できる時がきたら植えようと、畑の隅に残した苗や球根も見逃してはくれなかったということでした。それでも房総の花農家は、誰も来ない山の奥に球根を植えて隠れ栽培をして大事な種苗を守ったという話も伝えられています。
戦争は、農業生産の自由さえ農家から奪いました。以前、有機農業を志す若者に、平和が壊れたら有機農業なんて生産性の上がらない農業をやっていたら刑務所行きになるぞ、と半ば冗談でいたことがあります。集団的自衛権容認で、冗談が冗談でなくなりそうです。食の安全もまた平和のたまものなのだなちつくづく思います。
いま農的生活をめざして村に入る若者が、少しですが出てきています。目指すのは有機農業です。そんな若者たちに伝えたいと思って、再録しました。
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