2015年02月25日14時39分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(特別篇) 歌集『廣島』を読む(15) 「つづきゆく平和まつりの人中をいのち寂しくわがひとりなり」 山崎芳彦

 立花隆氏が「被爆者なき時代」と題して、月刊「文藝春秋」3月号の巻頭随筆を書いている。その中で、氏は、いまNHK広島が氏と原水禁運動とのかかわりを描く番組を作っていて、昨年その広島編がロンドンに拠点を置く反核運動団体CND(核軍縮キャンペーン)のリーダーを呼んでの対談を軸に作られ全国に流れたこと、今年は間もなく、長崎篇を加えた新版が全国ネットで流れることになっていることを書き、「つい先日その流れで長崎大学のRECNA(核兵器廃絶研究センター)との共同プロジェクトという形で『被爆者なき時代に向けて』という特別講義と学生六十名が参加してのワークショップが・・・行われた。ここで、私は『被爆者なき時代に向けて』に二重の意味を持たせた。一つは今後核戦争を起させないようにするにはどうすればいいのかという問いかけだが、もう一つは本当に被爆者がいなくなる時代を考えろの意味だ。」と記している。後者は広島、長崎の被爆者が亡くなり、いなくなる時代に、被爆体験をどう継承していったらいいのかが、いま若い世代に突きつけられているということである。重要な問題提起だ。 
 
 立花氏のこの随筆から少し引用させていただく。 
 「私は長崎原爆の爆心地のすぐそばで生まれた。といっても、私が生まれたのは一九四〇年。原爆投下の五年前だから、いまもこうして生きている。原爆が投下された一九四五年には、一家は北京に引越していた。/私の生まれた場所が爆心からどれくらい離れていたかと言うと水平距離にして六百メートル。爆心から五百メートル以内はほぼ生存者ゼロだった。原爆が破裂した瞬間、そこに太陽よりはるかに強烈な熱火球(温度百万度以上)が出現し、地上のものをすべて焼きつくした。火球近くの人は瞬時に黒焦げとなった。/あの日、私が生まれた場所付近にいたとしたら私は確実に死んでいたはずだ。/私が生まれた場所は、長崎医大(現長崎大学医学部)附属病院。いまでも被爆直後の爆心地付近として広く引用される米軍撮影の写真がある。」 
 「あの写真が発表されたのは、講和条約が結ばれて、日本で原爆報道が解禁されたあとのことだった。それまでは原爆が関係するニュースは、被爆写真を含め一切がGHQの厳重な報道管制の下にあり、何も伝えられることがなかった。したがってほとんどの日本人は、報道解禁後の『アサヒグラフ』特集号(一九五二年八月六日号)ではじめて原爆写真を見たのだ。あのとき私は小学六年生。あの特集号に思わず息を呑み、口もきけないほどの衝撃を受けたことを今でもよく覚えている。」 
 
 このような衝撃体験をした立花氏は、大学入学してすぐに原水禁運動に入り、入学した年に広島で開かれた第五回原水禁世界大会に東大の学生代表として参加し、原爆の被爆写真と土門拳の写真集『ヒロシマ』、新藤兼人の映画「原爆の子」、亀井文雄『世界は恐怖する』などをもって世界中で展覧会、映画会を催して歩く企画を立て、ヒロシマに来ていた各国代表を訪ねて協力を依頼した・・・ことも記している。そうした活動が世界の平和活動家の目を引いて、ロンドンに拠点を置く反核運動団体CND(核軍縮キャンペーン)から六十年春に開く国際核軍縮学生青年会議に日本代表としての参加の招請状が届いたともいう。このCNDについて立花氏は、当時の東西両陣営の対立という冷戦構造のどちらにも組しないで政治的中立を保つ立場を明確にした完全非暴力の市民運動組織で、この運動がいまでも西欧の平和運動の中心、と評価している。「共産党とはハッキリと一線を画した」ことを強調しているのは、立花氏の立ち位置なのであろう。 
 
 「本当に被爆者がいなくなる時代」について立花氏は、「長崎でも広島でも、戦後七十年を迎えて、被爆者の高齢化がすすみ、亡くなる人が急増している。被爆者団体が解散せざるをえなくなったり、被爆者の体験を聞こうにも、体験を語ってくれる人がいなくなったりという事態が起きている。・・・ヒロシマ、ナガサキの被爆者最後の生き残りも死ぬだろう。そういう時代に、被爆体験をどう継承していったらいいのかが、いま若い世代に突きつけられている。」と問題提起しているのだが、そのことについて異議はないし、筆者は同意する。 
 
 そのうえで「被爆体験の継承」をするということについて、若い世代に限らずいまを生きているわがこととしての視点をも確認しなければならないのだろうと考える。七十年後の今もなお、苦しみ多い生を生きながら、原爆被爆者認定を求め法廷闘争を含め、さまざまな闘いを続けなければならない現状、政府の「不当」(核放射能被曝の被曝の態様、病気症状の限定、爆心地からの距離、入市被爆などの残留放射能、低線量内部被曝による健康被害・障害などについての判断など)な認定基準によって被爆者認定を拒まれている人々のことをしっかりと支えることをしなければならないだろう。原爆投下国のアメリカ政府による被爆調査とその評価や、隠蔽と、それに追随した日本政府・関係機関が何をしたのかもさらに解明されなければならないだろう。 
 
 さらに、いまは、原発事故による核放射線被曝による健康被害についての将来にわたっての対応の体制を、広島・長崎データにとどまらずいま明らかにされつつある内部被曝による健康影響、さらに進むであろう医学的・科学的・疫学的研究の成果をも視野に置いた核放射線被害への対応策の永久的な構築、そして蓄積され処理方法の見通しのない使用済み核汚染廃棄物、使用済み核燃料による環境汚染による被害の防止対策問題、すでに放出された放射能による海洋をはじめ自然環境汚染対策・・・も加わる。原爆と原発事故による被害を無縁のものとすることは、核放射線による被害という点でつながる以上、不見識、不当であろう。筆者は今『原子力と核の時代史』(和田長久著、七ツ森書館、2014年8月6日刊)を読みながらそのように考えている。 
 
 もちろん「原爆の被爆体験」と言うとき、健康被害は重要なことだが、人間が生きる、生活することの全体を、あらゆる視点から捉え、原爆、劣化ウラン弾など核関連兵器、そして原爆開発の延長線でなされた原子力発電―核発電も含め、戦争と平和の問題、政治と社会のあり方について、過去・現在・未来をしっかりと踏まえることが、いま求められていると考える。 
 そのために、いま進められようとしている反人間的な原発再稼働、平和を破壊し、武器・武力の行使や開発を増幅し、格差拡大による歪んだ「経済成長戦略」を追求し、「世界の大国」を夢想する現在の安倍政権の日々を止めなければならないと、いま開会中の国会のあり方を見ながら痛感する。 
 
 歌集『廣島』を読み、記録することも「原爆の被爆体験」の継承のための一つの道であると思う。一首一首に込められた被爆者の姿を思い、原爆被爆下の人間を語って止まず、一瞬の死、さらに生きのびながらの苦難、死に至るまで我が身のうちに原爆を抱えなければならない生活。一部の歌人が言うような「類歌の集積」などという妄言とは無縁の、人間一人一人の体験の真実の短歌表現は、いまも、これからも読み継がれなければならないと考える。そして今、その上に原発を詠う短歌作品が詠まれなければならない、それを読み、記録することへの言いようのない無念を筆者は思いながら、この拙い連載を続けている。 
 
 
 ◇森本秀明 銀行員◇ 
アスファルト溶けし巷に今も聞ゆ子を探す声夫(つま)を呼ぶこゑ 
 
 ◇森本ちよの 無職◇ 
誰彼の顔とも分かぬ人人の血しほにまみれただ呻くのみ 
水欲しと呼べどあはれ水のめば死するものぞとあたへられざる 
傷つきし身を横たへて燃えさかる広島の最後を見つつ涙す 
 
 ◇山口富美子 公務員◇ 
人間の姿に遠し死にたりと触るればひくき声に水乞ふ 
黙黙と人積み上ぐる屍が時時にぶき音を立てゐつ 
犬の如く傷舐めてゐる外はなし光に焼けし身を蹲り 
生きたるも死にたるも皆焼け庭にまろびて暑き陽を浴びゐたり 
焼け残りしビルの片隅におき伏して皆少しづつ髪抜け初める 
ずるずると髪束に抜ける朝朝が続きて果てを女狂ひき 
叫び声今日とだえゐき髪ぬけて狂ひし女の死を伝へ来る 
 
 ◇山口光男◇ 
余燼の中に家建てゐしと伝ふのみ父に遇へざりき屍(むくろ)もあらざりき 
気もすでにふれてゐたらむ父なるか逃るを忘れ家建てゐしと 
余燼くゆる跡に直ちに建てゐしと伝ふるのみの父は死にしか 
焼くる鉄橋妹負ひてのがれ来し母上の右眼盲(めしひ)となれり 
背中一面ケロイドなせる妹もすでに十八の娘となれり 
日雇に今日も出てゆく母にしてこのバラツクも八年経にけり 
一片の形見すらだになき父よ傷つき野倒死(のたれじに)したとは思ひたくなし 
服一つ買ふことも出来ぬ吾にしてひねもすをただ生くべく働く 
 
 ◇山口勇子 事務員◇ 
母上を木片をもちて焼きたるは幼き頃の通学の道 
生きながら顔より手より血を吹きてみとるすべなく終れる友よ 
はらはらとあさりの汁に涙落ちぬ久方に子らとかこみし朝餉 
キヤラメルの小さき箱をそれぞれに配り終へしが心重たし 
人も家も炎にとけしこの町を河絶間なく今日も流るる 
 
 ◇故 山隅福代◇ 
焼跡に枯れしと見えし垣のかなめ幹より枝より新芽出しぬ 
傾きしわが家の柱の隙間より灯明り背戸にいく筋もひく 
 
 ◇山隅 衞 教員◇ 
探ね得し屍の妻を瓦よせて焼くるを前に男あぐらゐ 
にぎり飯うけたるままを手に支へ半裸の亡者たちまよひ往く 
佇みてゆくりなく見し焼土に白きは人のしやりかうべなり 
現身のいのち愛(をし)みし人の骨陶(すゑ)のかけらと地(つち)にちらばふ 
生きの世に男女(をとこをみな)の別(わ)けはあれどわが手の上のあはれ野晒(さらし) 
嘆きつつ探ねわたりし親なるか将た子にあるかわが手の白骨 
ほろびざるものの生命(いのち)を萌えたてて焦土の街に春の雨降る 
萌えいづる草のさみどり去(い)にし日の死にの呻きを沁みたる地に 
つづきゆく平和まつりの人中をいのち寂しくわがひとりなり 
下敷きになりたる時のかたみとて鴨居につるせる奉公袋 
赤き雲たなびく山脈(やまなみ)遠にして平和橋かかりジープが走る 
亡魂のひそめる廃墟に巢くふ鳩ゆふべは帰り翼ををさむ 
この遺児ら小父(をぢ)よとなつく頭撫で原爆の日の父をかたるも 
焼け失せし練兵場の草原にメーデーの群れ気勢の旗なびかす 
忘れたる命もどせる如くにもすずめの交(つる)むをわがみてをりぬ 
秋ふけてこの悲しびを言はざりき柿の皮むくわがひとりにて 
ピカドンのことば一つが遺されてたち変りゆくわが住める街 
灰燼の地(つち)をならして人ぞ住むすでに貧富のせめがふ巷に 
傘雲ののぼりしかの日生命いきて石なげ打てば川に音あり 
けふの日ををしみなく没(い)る日のまろさ傷(いた)み崩えせし街の彼方に 
夕焼のをさまりてゆく空低く弓なりにかかるまた新月が 
蕭条と風のなびける草土堤に生きてけふある姿を佇ちぬ 
 
 ◇山根春人 会社員◇ 
原爆の犠牲者を焼く青き煙今日も病室の窓越しに見ゆ 
原爆に頭傷つき十日程はただ昏昏と眠り居しわれ 
 
 ◇山本 巌 鍼灸医◇ 
国のためと戒め堪へし妻子らも原爆の灰と散り果てにける 
亡き吾子に似たる乙女子呼びとめて声かけんとぞためらふわれは 
生けるものみな死に絶えし広島のもなかに佇てば月見草咲く 
七十五年住めぬと云ひし広島の焼野が原に草の芽の見ゆ 
 
 ◇山本紀代子 主婦◇ 
全身を焼かれし皮膚は腰のへにかくもたれてよく子よ帰り来し 
生き乍ら身体焼かれて帰り来し子をほめやるもいまはのきはに 
生きながら焼かれし身体抱きやることも能はず吾子は逝きたり 
己が身の焼かるは知らず敵の機を見上げをりしとふかの朝の吾子 
唯一人残りゐし男の子を原爆に死なせしうらみつくる日あらず 
原爆に死にし子の骨葬むると高きみ山に今日土を掘る 
日本に原爆落さずともよかりしとふ訳文読みて一夜を泣きぬ 
精霊流し見むとドームの人混に押され押されて祈りもあへず 
吾子のごと原爆にあひて死にたしと思ふ日ありて恐るものなし 
 
 ◇山本 隆 会社員◇ 
原子弾浴びしあはれな手をかくし人目を忍び指そらし見る 
 
 ◇山本英雄 農業◇ 
死せるあり蠢くもあり深傷負ふ人累なりて河岸に雪崩るる 
飲み終へし水筒力なく返しつつ臨終(いまは)に礼をのべし戦友(とも)はも 
水掬ふ姿と覚し濠端に中腰のまま息絶えし人 
黒き雨沛然と来れば野に濡れて襤褸まとふごと皮膚垂るる人 
垂乳根の母は違へず吾子なりと頭蓋の歯並まさぐりて哭く 
ひねもすを死体整理に努めたるその戦友も亡し二日後のこと 
焦げ残る南瓜の青き拾ひ来て貧しく兵の総菜に炊く 
 
 ◇山本雅子 主婦◇ 
ピカハゲと嘲けらるとも堪へて来し堪へがたきものは再軍備なり 
                          (つづく) 


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