2015年08月23日01時29分掲載
無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201508230129060
みる・よむ・きく
ヒューム著「人性論」 ‘A treatise on Human Nature’ ヒュームは面白いが本気でやると難しい。でもヒュームを読んでおくとカントが楽になる
イギリス経験論の哲学者、デビッド・ヒュームは「人性論」(「人間本性論」というタイトルの邦題もある)の冒頭で、人間の知覚には印象と観念しかない、と言う。そして、人間は様々な印象を外界から受け、その結果、観念を抱くようになるとしている。最初に観念があって、その結果、印象が生まれるのではないと言いたいのである。
「たとえば、子供に緋色やオレンジ色の観念、甘さや苦さの観念を与えるために私は実物を示す。言いかえると、そうした印象を子供に知らせる。しかし、反対にまず観念を呼び起こして、それで印象を生じさせようと努めるといったばかげたやり方はしない。要するに、類似する知覚の恒常的な相伴は、一方が他方の原因であることの疑えぬ証拠であり、そして、今述べた印象の先行は、印象が観念の原因であって、観念が印象の原因なのではないこととの同じく疑えぬ証拠である」
印象によって観念が生まれる。印象と観念は常にペアになっているが、印象は勢いと生気にあふれている。印象とは自然からまさに今、受けた生々しい色や匂いや音にあふれた刺激である。
生まれてこのかた太陽が朝東から上って、夕方には西に沈んでいく。毎日、それを繰り返し見ながら、大人になっていくうちに太陽は地球の周りをぐるぐる回っているように考えるようになる。理科の時間に実際には太陽ではなく、地球が太陽の周りを回っているのだ、ということを学ぶにしても、経験的には太陽が動いているように地上にいると感じられる。太陽が沈んでいる間も太陽は見えないだけで、私たちの視覚の外側を動いているのだと推測するようになる。
しかし、実際に毎日、上ってくる太陽は同じものだろうか。昨日の太陽と今日の太陽は同じものなんだろうか。太陽は本当に西に沈んだあとも存在し続けるんだろうか。感覚は様々な印象を私たちに投げかけている。
たとえば夜明けに鳴く鳥は上る太陽と関係があるのだろうか?鳥が鳴いて太陽が鳴き声を聞きつけて現れる、という解釈は不可能だろうか。太陽が上る頃、様々なことが同時に起きる。次第に熱を受けて暖かくなる。空は明るみをます。これらのことは太陽とどう関係しているのだろうか。
ヒュームは「人性論」の中で、人間は様々な世界からの印象を受け、それらの印象を観念として脳に刻むと書いている。そして、観念と観念との関係をいくつかの論理でつなごうとする、と説いている。
太陽が上る (因果関係)⇒ 暖かくなる
人はたとえばこういう原因と結果の関係(因果関係)があると普通は考えるようになる。これは経験則から得られた観念(太陽が上る)と観念(暖かくなる)の連合だという。しかし、ヒュームは太陽が上ったから本当に暖かくなったのかどうか、究極の真理は人間にはわからないと言う。ただ言えるのは太陽が上ると通常暖かくなる。だから、これは経験から来るものの見方である。
しかし、次のようには考えない。
夜明け前に鳥が鳴く(因果関係)⇒ 暖かくなる
鳥が鳴くことが熱を左右するとは経験則上、人間は思わないからだ。鳥には体温があるから暖かいし、親鳥は卵を返そうとして温める。しかし、だからといって、地球を鳥が温めるとは人間は普通は考えない。まして、鳥が鳴いたから地球が暖かくなったとは考えない。
こういうふうな観念と観念の結合をヒュームは因果関係と呼ぶ。人間は様々な経験をしながら、観念と観念のつながりを考える。そこに「類似」や「因果関係」や「近接」(時間や場所が近い2つの現象)といった繋がり方があるという。人間が観念と観念を関係付ける場合に大別すると上の3つの場合があるというのである。
上の夜明け前に鳴く鳥と暖かくなることの関係は、因果関係ではなく、「近接」の関係である。鳥が鳴いてしばらくすると、太陽が上るという時間的な近接関係があるのである。
たとえばAさんが来ると、雨が降ることが多い場合、Aさんは雨男と呼ばれる。しかし、Aさんが雨を降らせているわけではない。Aさんが来るという観念と、雨が降るという観念の間に経験則的には因果関係は認められない。しかし、何らかの近接関係があるのかもしれない。たとえばAさんは湿気を感じると動き出す性質がある、とかだ。しかし、Aさんは雨のような姿形をしているわけではないから、「類似」の関係にはない。
いずれにしてもこれらは観念が連合を形成する場合の大きな原理である。この「類似」、「近接」、「因果関係」をヒュームは自然的関係と呼ぶ。
一方、人間の知覚の中で、観念と観念の「関係」を考える原則をもう一種類ヒュームは設定している。ヒュームはそれを「哲学的関係」と呼び、以下の7つを上げている。
1、類似 2、同一、3、時間と空間の関係 4、量・数の多い・少ない 5、ある同じ性質を保有する度合い 6、反対の関係 7、因果性
これらの認識の枠組みがもともと人間にはあるとヒュームは言う。先ほどの観念と観念の連合原理と、こちらの関係による観念と観念の比較。これらによって人間は世界を認識したり、ものを判断したりしていることになる。特に、関係の場合で触れた時間と空間について、人間は「空間」も「時間」も直接の形で見ることはできないが、空間の中に置かれた有限な物質や時間の中に置かれた有限な時間なら認識することができる。といっても時間の場合は直接目に見えないから、時計の針が進んだり、木の葉が紅葉したりといった具合に間接的な形で認識することになる。いずれにせよ、人間は有限な存在であり、無限の空間も時間も直接見たり、触れたりすることはできない。ただ、時間と空間の中で物事の推移を経験できるのである。
こうして「人性論」を読んでいくと、ヒュームの哲学がドイツの哲学者、カントのそれに近いことがわかる。カントの主著である「純粋理性批判」を読むと、似たような議論をカントが展開しているのである。実際、哲学史を紐解くと、カントはヒュームから大きな影響を受けて、批判哲学を形成したとされている。時間や空間についての考え方もそうだし、観念と観念の関係を見るときの基本的な原則もそうである。これはカントがカテゴリーという言葉で説明している事柄である。カントをいきなり読んだだけでは、どうしてそのような思考が出てくるのか、恐るべき怪物のように思えるが、ヒュームを手にして見ると、カントといえども、伝統の中でコツコツ考えを発展させてきたのだ、ということがわかり、もっと親しみやすくなるだろう。
ヒュームは「人性論」の中で、先ほどの太陽の同一性に対する疑いと同様に、人間自体は本当に同じと言えるのかどうかと問いかけている。日によって人間の思考は変わるし、そもそも人間は日々受けている印象の束である、という。だから、欧州大陸のデカルトが言っていたような「もの思う我」のように完成された自我を中心に設定する、というよりも、印象を受けることで観念を形成し、それらから刻々と思考する変わり行く人間という人間観がうかがえる。人間は日々肉体も精神も変わるから、何をもって人間の同一性を保証できるのか、となると基準がない。ヒュームは突然、ガバっと大きく変わったら同一性は崩れるが、日々、少しずつ変わる場合は同一性がなくなったとは思われないだろう、といった議論を最後の方で行っている。
筆者が読んだのは中公クラシックスから出た土岐邦夫氏と小西嘉四郎氏の共訳による版である。この本の冒頭には東大大学院教授、一ノ瀬正樹教授による「原因と結果と自由と」と題された解説が掲載されている。この解説は非常に面白く有益である。マルブランシュの「機会原因論」という考え方も紹介されている。そして、一ノ瀬教授が書いているように、ヒュームはざっくり大まかに要点をつかむのは難しくないとしても、精緻に本当にそう言えるかを1つ1つ考えていくと、とても難しいところがある。一見、優しそうに見えて、手ごわい何かがある。東大大学院の一ノ瀬教授もそうだというのである。それでも、ヒュームを読んでいると、普段、私たちが世の中の出来事をどう受け取り、どう判断し、どうそれに対する行動を形成するか、という時に、非常にイギリス人的な冷静な考え方を参照してもよいのだ、ということに思い当たるのである。
■一ノ瀬正樹氏の「原因と結果と自由と」から
「ドラムを叩いたこと<によって>音が出た、という理解の仕方を拒否することは常識に反するだろう。私たちはそういう風に、「によって」を介在させて、ドラムを叩くことを理解しているのである(そうでなければ、打楽器の演奏の仕方を習う、という事態が意味をなさなくなってしまう)。だとすると、ここでもうひとつの考え方の道筋が浮かんでくる。本当に「ゆえに」や「によって」の糸が見えるかどうかは別にして、私たちが、実際に「ゆえに」や「によって」を介在させて物事を理解しているというのは事実なのだから、その事実の成り立ちを解明する、という筋道である。いってみるならば、「本当の事実」を問題にするのではなく、「私たちの事実」を問題にする、というように、観点の変換を行うということである。このことは、言い換えるならば、原因結果の関係の問題を、「形而上学」ではなく、「認識論」の問題として捉え直していく、ということにほかならない。これは、大変に大きなパラダイム転換である。」
■デビッド・ヒューム(David Hume, 1711 - 1776 )
イギリス経験論の代表的な哲学者のひとり。スコットランドのエジンバラ出身。「人性論」は1739年に出版されたものの当初はほとんど注目されることもなかったと言われる。ヒュームの先輩格の哲学者にジョン・ロック(1632 - 1704)がおり、イギリス経験論を形成した。「ロックの認識論によれば、われわれの心はいわば白紙(タブラ・ラーサ、羅:tabula rasa)として生得観念(innate ideas)を有していない。観念の起原はあくまでも経験であり、我々の側にあるのはせいぜいそれらを認識し、加工する能力だけである。そして、観念の起源は外的な感覚(sensation)と内的な反省(reflection)とに区分される。」(ウィキペディア)とあり、ヒュームがロックの哲学を受け継いでいることがわかる。
◇ジョン・ロック著 「統治二論」〜政治学屈指の古典〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312221117340
◇トマス・ホッブズ著 「リヴァイアサン (国家論)」 〜人殺しはいけないのか?〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312292346170
◇ジャン=ジャック・ルソー著「社会契約論」(中山元訳) 〜主権者とは誰か〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201401010114173
◇モンテスキュー著「法の精神」 〜「権力分立」は日本でなぜ実現できないか〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312260209124
◇ジョン・スチュアート・ミル著「自由論」〜少数意見はなぜ尊重されなくてはならないのか〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201306171108171
Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。