2016年02月18日08時48分掲載
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パトリック・モディアノ著「ドラ・ブリュデール」(邦訳タイトル「1941年。パリの尋ね人」)
1年で一番寒い2月半ば、フランスの作家パトリック・モディアノの「ドラ・ブリュデール」(邦訳タイトル「1941年。パリの尋ね人」)を読んだ。この小説、というよりノンフィクションの重要な事件がちょうどこの厳しい季節に起きるのだ。1942年1月から2月のパリは極寒だったことが記録されているらしい。
パトリック・モディアノは死んでいった人々を哀悼し、過去に想像力の糸を下ろしていく作家であることで知られていて、ノーベル文学賞の受賞理由もそうだった。「ドラ・ブリュデール」の場合はたまさか目にした第二次大戦中の古い新聞〜過去の史実をライブラリーでひもといていたのだろうか〜で、ドラ・ブリュデールという名前の15歳の少女の行方を探す尋ね人の広告をモディアノが目に留めたことに端を発する。広告を出したのは少女の両親である。それは1941年12月31日のパリ・ソワール紙の欄だった。
モディアノはそれから8年近く、その娘や広告を出した娘の両親の行方を探し求める。家族の親族を訪ね、家族が暮らしていた界隈を歩き、娘が失踪した状況を追体験しようとする。本書はその記録である。と、同時に、そこには作家モディアノ自身の青春と出自が語られている。1945年に生まれたモディアノにとってナチ占領下のパリは自分の生まれるに至った状況そのものであり、自分がどこから出てきたのかを考える源であるからだそうだ。しかも、娘の家のあった界隈は自分が少年時代を過ごした地域でもある。さらに、モディアノはおそらく直感的にドラ・ブリュデールが自分と同じユダヤ系であることを感じたのかもしれない。その当時、ユダヤ系の家族はナチに協力したフランス行政当局によって収容所に入れられ、その多くがアウシュビッツなどへ移送され、殺されたからだ。とくに1941年12月には抗独レジスタンスに対する報復としての戒厳令の強化(外出禁止時間の午後6時への繰り上げ)と、ユダヤ人に対する大規模な一斉摘発で700人が逮捕されたという。
普通、ドラマを制作する場合はドラマのもとになっている時代背景(大状況)と、その時代背景のもとで主人公の家族や組織が抱えている個別的な状況(小状況)と、主人公の性格とか思想(主人公のキャラクター)を設定する必要がある。たとえ同じ時代であっても、大状況と小状況と主人公のキャラクターの組み合わせ次第で無数のドラマが作り出せる。たとえば今の日本で格差が拡大していると言っても、苦境の家庭もあれば、どんどんリッチになっていく家庭もあり、同時にまた苦境の家庭であっても現政権を肯定してリッチになっていくことを夢見ている人々もいるかもしれない。それは主人公がどのような思想や性格かにもよるからだ。
ドラ・ブリュデールの場合はいったい何が起きていたのか?それを1つ1つ追いかけていくと、ユダヤ系の人々を一斉摘発していたナチス占領時代という大状況がまず見えてくる。とはいえ、日本人から見た場合、パリがナチスに占領されていた時代という事態がほとんど知られていないか、あるいは知られていいたとしても映画による断片的情報のつぎはぎのようなものだろう。過去の記録から、あるいは証言からドラやその家族を摘発していた警察署の行動が明かされていくのだが、それは略奪とも言えるものだった。
こうした大状況自体は多くのフランス人の国民的記憶をたどることである程度、見えてくるものである。一方、ドラ・ブリュデールの家族が抱えていた小状況は大状況に比べるとはるかに見えにくくなる。というのも親子は結果的にはおそらく全員、アウシュビッツで殺されてしまったから。しかし、アウシュビッツへ送られたユダヤ人の1つの家族であっても、そこには送られていくまでのさまざまなデテールがあり、それらは1つ1つの家族によって異なっていることが記されていく。つまり、600万人のユダヤ人が殺されたと推定されているけれども、それらの人々にはそれぞれが1つ1つの小状況を抱えていて、その中でなんとか生きたい、と思っていたであろうことである。ドラ・ブリュデールの場合はなぜ彼女が失踪し、両親が尋ね人の広告を出したのか?ということである。そのような広告を出せば当局にユダヤ人であることを察知されたり、密告される可能性が高い。それなのにいったい、なぜ娘が行方不明となり、さらにはまた親が尋ね人の広告を出したのか?
第二次大戦からおよそ70年が過ぎた今日、「ドラ・ブリュデール」を読んだとき、冷酷な排外主義の姿が強く印象づけられる。政府がそれまで同じ国民であった人々に対して、あるいはともに働いて暮らしていた地域の住民に対して、その民族的出自を理由にバッジを服につけさせる。さらにはそれを理由にして収容したり、移送して殺したりする。そうした暴力にさらされる人々は通常、少数民族であり、マイノリティと呼ばれる人々である。過去の戦争に関して言えば日本の占領下に置かれた人々の1つ1つの家族にも同様のドラマがあったであろうことである。
モディアノはさまざまな証言や役場の記録、当時の気象記録などを手がかりに、1941年12月から1942年にいたるドラ・ブリュデールとその両親の行動をたどろうとする。いったい、なぜドラは失踪したのか?そのことは当時パリが置かれていた占領政策とどう関係していたのか。しかし、どうしてもつきとめられないことはドラという15歳の少女の胸にそのとき、実際に秘められていた思いである。もしかすると、彼女は当時、占領下ではなかったフランス南部のいわゆる非占領地域(自由地域)のことが頭に浮かんだのかもしれない。あるいは誰かに恋をしていたのだろうか?あるいはレジスタンス活動に参加していた可能性もあるかもしれない。いずれにしても主人公のキャラクターというもっともドラマの中心となる核心の部分が未知数なのである。モディアノはドラやその家族の写真も何枚か入手している。
ドラがなぜ失踪したのか、その理由は誰にも結局のところわからない。彼女を逮捕した警察にも、占領していたドイツ当局にも、そして彼女の足跡をたどろうとしたモディアノ自身にも。「誰も、ドラから彼女の胸の思い、その真実、その秘密を奪い取ることはできないのだ」とモディアノは本書の締めに書いている。奪い取ると訳したが、原書においてはvolerとあり、つまりは盗む、という意味である。たとえ宝石や金を盗み取ったとしても、誰も、本人の内面の思い=秘密=真実を盗み取ることはできないのだ、と。そこに人間の尊厳があるのだとモディアノは言っているようである。
村上良太
※以下はガリマール出版社のウェブサイト。執筆の動機をモディアノのインタビューしている。
Rencontre avec Patrick Modiano, a l'occasion de la parution de Dora Bruder (1995)
http://www.gallimard.fr/catalog/entretiens/01034347.htm
このインタビューによればモディアノは尋ね人の広告を見てから、そのことが気になって、まずセルジュ・クラルスフェルド著「フランスにおけるユダヤ人の強制送還の歴史」(1978年刊)を検索したそうである。すると、そこにDora Bruder(ドラ・ブリュデール)が1942年9月18日にドランシーの収容所からアウシュビッツに移送された事実が出ていたことを知った、ということである。さらに彼女の両親も時間をおいてアウシュビッツに移送されていた。つまり、モディアノのその後の8年近くに渡る調査はドラ・ブリュデールがアウシュビッツに送られた事実が前提にあった。尋ね人の広告によって身近な世界に歴史がリアルに開けてきたことと、1つの家族全員が絶滅収容所に送られていた事実がモディアノを動かしたのだろう。
※文学ではなく、歴史学や社会学の範疇でフランスには記録を残さなかった人々の歴史を扱った書物があります。
たとえばアラン・コルバン著『記録を残さなかった男の歴史〜ある木靴職人の世界〜』です。今身の回りにはビデオカメラやパソコンなど、個人の記録を残すツールが無数にあり、記録を加速度的に増やしています。こうした文明はどこに向っているのでしょうか?
フランスの歴史家アラン・コルバンの「記録を残さなかった男の歴史」はそれに対する興味深いアンチテーゼのように見えます。コルバンは19世紀、フランス農村に生きた木靴職人ルイ=フランソワ・ピナゴの生活を推理します。ピナゴを主人公に据えた理由はピナゴが文盲で戸籍簿の出生と死亡欄以外に一切の記録を残していないためです。
コルバンは記録を残さなかった人間を注意深く選び、その人間の足取りを周囲の地理、歴史、人口動態、経済などの記録に基づき徹底したリサーチと想像力で描いたのです。「記録を残さず消えてしまった人々について我々は一体何を知ることができるのか?」
コルバンはそんな新しい歴史学を提唱しました。
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