2016年02月23日02時16分掲載
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コラム
コーヒーと人類 冨田智嗣
子どもの頃から喫茶店に行くのが好きでした。繁華街を出歩くのが大好きで食いしんぼうの母の影響だと思います。母子ともに甘党で、ぼくと弟はチョコレートパフェやホットケーキにプリンアラモード、母はタバコ入れからセブンスターを取り出して、ホット(コーヒー)をオーダー。春から秋は『冷コー!』と言ってアイスコーヒーにクリームとたっぷりのシロップを入れていました。今でも大阪のおばちゃんは『冷コー』なんて言うのでしょうか?
僕はといえば思春期以降もコーヒーの苦さや酸味にあまりなじめなくてブラックなど論外、コカコーラかクリームソーダにアルデンテとは全く無縁なナポリタンやミートソーススパゲティのセットを目当に喫茶店に連れていってもらうのが楽しみでした。それでも喫茶店に集っている大人たちにとっては、味はともかくホットコーヒーがオーダーの堂々たる主役であることはわかりましたし、コーヒーをブラックで飲めるようになったら大人への「通過儀礼」のひとつがが果たされたことになるのだろうと少々大げさに考えたこともありました。
昭和の昔に母に連れられて、弟と行きつけの喫茶店で過ごす時間は家の居間での時間の延長のようでもあったし、また当時コーヒーは喫茶店という『集会所』あってこその嗜好品だったのではないでしょうか。自家焙煎で凝ったインテリアやカップでコーヒーが供されるお店もすでにありましたが、そういうお店でも家族連れで、あるいは飲み会帰りの若者やサラリーマンが入っていけるような懐の深さがあったように思います。
その後大学生になってから、やっとコーヒーをまともに飲めるようになった気がしますが、それはコーヒー自体の味が楽しめるまでに味覚が発達したわけでは全くなく、コーヒーとともに喫茶店でくつろぐことができるようになった、ということです。ガールフレンドと一緒にコーヒーをオーダーし、タバコをふかしておとなのまねごとをして背伸びしてみるのも楽しい時間でした。甘党は相変わらずでしたので、ブラックコーヒーとケーキのセットの食べ歩きもしましたし、また他のお客さんが楽しそうに談笑していたり、シリアスに話し込んでいる様子を観察するのも暇つぶしにはもってこいでした。大学生の頃から建築にも興味をもちはじめたのでお店のインテリアを見比べる楽しみも加わりましたし、気に入ったインテリアのお店でさまざまな人々に紛れてコーヒー一杯で一人読書するのも落ち着きました。通過儀礼をうまくやり過ごすことができたということなのかもしれません。
時代が移り、値段の安さを売りにしたフランチャイズのお店や、世界を席巻するような外資のチェーン店があちこちにでき、『喫茶店』より『カフェ』という言葉のほうが通りがよくなってからどれくらい経つでしょうか?コーヒー界の『セカンドウエイブ』という耳慣れないことばとともに『シアトル系』と呼ばれるお店が幅を利かし、以前より多くの日本人がコーヒーを飲むようになったのはたしかだと思います。今では次の『サードウエイブ』という『時代』に移行しつつあるそうで、昔の『ホット』や『ブレンド』ということばにかわり、『シングルオリジン』『スペシャルティコーヒー』とよばれるまたまた新しいことばもサードウエイブから広まったようです。
『カフェ・ラテ』に象徴されるような深煎りの苦みをきかせた豆にミルクたっぷりのセカンドウエイブから、豆それぞれの個性がわかるように浅煎りから中煎りがサードウエイブの中心だそうです。これは厳選された単一の産地の豆をブレンドせずにじっくり味わおうというわけで、栽培のプロセスまで気を配ったコーヒー産地の選定から、様々なスタイルの焙煎、抽出を経て最終的にカップに注がれたコーヒーの味見までワインのソムリエ顔負けの専門家がしのぎを削っているようです。おかげでお金さえ払えば本当に美味しいコーヒーが飲める時代にはなりました。生豆の良し悪しはもちろん、焙煎してからの鮮度維持まで、事細かに『指導』してくださるお店が増えましたし、昔飲んだコーヒーの嫌な酸味は単に焙煎してから日が経ちすぎた古い豆だったにすぎないこともわかりました。高級ワインに匹敵するような庶民には手の届かないお値段で取引される豆も少なくないようです。コーヒーの世界も階層化がすすんだというわけです。
こうしてみると、食品としてのコーヒーのレベルは上がったことは確かなのでしょうが、コーヒーとともにあった文化まで洗練されてきたのかというと、僕としては甚だ疑問を感じるところもあります。
大手のチェーン店では、コーヒーだけなら比較的安い値段で飲めますが、コーヒー飲料のヴァリエーションは結構いいお値段ですし、昔のモーニング・セットのように老若問わず小腹を空かしたお客が満足できるお得感のあるメニューはありません。またwifiが無料で使えるのでノートパソコンやスマートフォンを持ち込めるところも多いので、お仕事されている方やネットショッピング、メールのやり取りをしているお客さんでいっぱいなのですが、さながらオフィスか『一人っ子』の個室の延長のようです。
また最先端のサードウエイブを意識したお店はチェーンではないところは魅力なのですが、どうしてもオーナーがコーヒーの味を徹底的に追求してしまうので良い豆の仕入れ・高価な海外製の焙煎機を備えた焙煎主体のお店になり、お店のイートインスペースはミニマムで食べるものがほとんどなしというお店も珍しくありません。豆の販売専門でコーヒーを飲みたいお客さんは全て『店外で』テイクアウトで飲んでください、立ち飲みもままなりません、というお店すらあります。もちろん、意地悪でそうしているわけでは決してなく、むしろそういうお店のオーナーはみなさん熱心なコーヒー愛好家であるばかりでなくたいへん気配りのできる方が多い印象を受けますし、高価な焙煎機を購入してそれに賭けている以上お店の規模も小さくならざるをえないのが実情のようです。とてもフードメニューの充実までにはエネルギーが回らない、ということでしょうか。
でもぼくにはコーヒーの味を追求することと同じくらい大事なこともあると思うのです。昔は味は色々でしたが、コーヒーを媒介としていろんな人間関係が垣間見えるのが魅力でした。もちろん、以前から喫茶店で一人孤独に新聞を読んだりタバコを燻らしている人もいましたが、彼らは孤独を楽しんではいても孤立してはいなかった。いまの大手チェーンでスマートフォンやパソコンに向かう人々は群れてはいても集ってはないような気がしますし、シングルオリジンの美味しいコーヒーをお茶請けもあまりないお店で素早く飲んで立ち去るかマイボトルをもちこんでテイクアウトするのも今風といえば今風なのでしょうが、ちょっと忙しすぎる気がします。
コーヒーの世界が、今の世の中の人間関係、家族関係をそのまま反映しているのだとしたら少し寂しい気もしますが、昔ながらのお店は『純喫茶』と呼ばれて健在のようです。昭和の純喫茶は『酒類を出さない』ということを意味していたはずですが、今は昔風の喫茶店が『純喫茶』でいまでも常連さんがそこを朝ごはんやお昼の食卓代わりにしているのでしょう。でも残念ながら最先端のお店との間で互いの客層はあまり交わらない気がします。いまの世の中のありかたを意識しながらただ懐古的になるのでもない懐の深い『場』としてのあたらしい形の『喫茶店・カフェ』があってもいいのかもしれません。
冨田智嗣
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