2016年04月03日01時00分掲載  無料記事
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みる・よむ・きく

趙景達著「近代朝鮮と日本」

  集団的自衛権を認めるように安倍政権が憲法解釈を変更したことに基づき、今年3月、ついに安保法制が施行され、いつ海外で戦闘に参加してもおかしくない時代に入りました。 
 
  自衛隊が派遣される可能性のある場所はいくつも候補が浮かんでいますが、朝鮮半島もその1つです。米国が北朝鮮に対する武力行使を行う場合、自衛隊が協力体制に入る可能性があります。その場合は半島に自衛隊が足を踏み込むことになる可能性もあります。1950年から53年にかけて起きた朝鮮戦争のとき、我が国は集団的自衛権という憲法解釈を行っていなかったことと、自衛隊を保持していなかったために戦争に参加することはありませんでしたが、憲法解釈がもとに戻らない限り、これから先は前提がことなってきます。 
 
  千葉大学教授の趙景達氏による「近代朝鮮と日本」(岩波新書)では韓国併合まで、日本軍が朝鮮半島とどう関わってきたかが検証されています。江戸から明治に代わり、日本は近代化を急ピッチで行いました。欧米列強に強いられた不平等条約を改正することを目指していた半面、隣国・朝鮮に対しては逆に武力をつきつけて不平等条約を締結します。日本が欧米列強からこうされたくないと思っていたことを逆に隣国の朝鮮に対して行って行くのです。本書を読むと、そのプロセスがよく理解できます。1910年に突然、日本が韓国を併合したわけではもちろんなく、明治以後、こつこつこつこつと隣国支配のために関与を深めていきます。本書によれば、大まかな流れの要素として以下のようなものがあります。 
 
・江華島事件  1875年 
 
    日本の軍艦「雲揚号」がソウル付近にある江華島周辺に赴いた時、ボートで島に接岸しようとしたところ、砲台から攻撃を受けた。そこで雲揚号から攻撃し、砲台を焼き払った。日本軍の行動は挑発行為とも見られている。 
 
・江華島条約  1876年 
 
    江華島事件を口実に、軍艦6隻を派遣し、威圧しながら、「日朝修好条規(江華島条約)」を締結した。この条約は日本の治外法権、朝鮮の関税を無税にすること、日本貨幣を朝鮮で流通させる権利、その他、釜山などの開港を認めさせるなど、不平等条約だったとされる。また、朝鮮は清から独立した国である、とし、朝鮮と中国の切り離しを狙った。このことはのちに日清戦争へとつながっていく。 
 
            ↓ 
 
  日朝修好条規を皮切りに貨幣経済が朝鮮の農村津々浦々まで浸透していった。日本の商人はコメを安価に買い取ろうとした。暮らしのためにすぐにも金を必要とする小農民ほど米価が安い時でもコメを売らざるを得ず、貧富の格差がどんどん拡大していった。やがて貧しい農民は土地を手放し、ルンペン化していった。一方、治外法権を享受しながら、農作物などを買いたたく日本の商人に対する印象が悪くなっていく。 
 
・甲申政変  1884年 
 
    朝鮮王朝内の内紛で急進的な開化派(開国派)がクーデターを行うが失敗。朝鮮王朝内では実権を握っていたのは国王をいただく鎖国攘夷派だったが、王朝内には日本の支援を受け、開国して近代化を急ぐべきであると考える勢力もあった。この内紛を受けて、宗主国として振る舞っていた清と新たに進出の機会をうかがう日本が治安維持のために出兵した。 
 
・天津条約  1885年 
 
  甲申政変のあとを受けて中国の天津で日清間で朝鮮を巡る取り決めを行った。日清両軍とも朝鮮半島から撤兵すること、朝鮮の内乱で出兵するときは互いに事前に通告しあうことなどが盛り込まれる。 
 
  ※これ以後、朝鮮の宗主国だった清、新たに進出を狙う日本、北から進出をうかがうロシアが朝鮮半島をめぐって対峙していくことになる。そういった中で「朝鮮中立国化」を構想する者もいた。儒教思想で武力による覇道を排して道徳を掲げた統治を理想とする朝鮮は列強の武力闘争に巻き込まれるべきではない、という考えだった。 
 
・甲午農民戦争勃発 1894年 
 
  窮乏化する民衆が不満を爆発させ、農民戦争が勃発した。朝鮮政府が清に鎮圧のための派兵を求めた時、日本軍も派兵を行った。農民軍は鎮圧された。日本は日清両名で朝鮮に対し内政改革を求めようとしたが、宗主国を自任する清が拒否した。そこで日本軍が朝鮮王宮を占領して、政権交代を力づくで起こし、親日政府を樹立。そしてその政府から、清軍を駆逐してもらいたいという依頼を受けて、清国艦隊に対して奇襲攻撃を行った。 
 
 日清戦争のさなか、朝鮮の行政改革が急速に行われていく。 
 
・日清講和条約(下関条約)  1895年 
 
  朝鮮の独立が確認され、清は宗主国ではなくなった。日本は遼東半島、台湾、澎湖列島を割譲され、賠償金2億両を得ることになった。これに対して、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉が行われた。以後、日本は南下してきたロシアを仮想敵とし始める。 
 
・王宮で日本の公使と日本人の部隊による閔妃虐殺  1895年 
 
・国号を「大韓帝国」に改め、高宗が皇帝に即位  1897年 
 
  朝鮮は中国(明)を中心とした冊封体制によって生まれた称号であったが故に独立に際して名称を変更した。 
 
・義和団事件への派兵を契機にしてロシアが満州に進出 1900年 
 
・日本は日英同盟でロシアに対抗 ロシアが満州から撤兵 1902年 
 
・日本とロシアが「満州」を巡り、対立を本格化させていく 
 
・日露開戦  1904年 
 
・日本は日露開戦のさなか、韓国政府に「日韓議定書」への調印を強要する  1904年 
   6か条からなる日韓議定書には韓国政府が日本の改革案を受け入れるのと引き換えに韓国皇室の安全や領土の保全を保障することや、そのために韓国政府は日本軍が軍略上必要な場所を随時接収して使えることを認めることなどが盛り込まれていた。これにより大韓帝国は全土が日本軍の兵站基地と化し、戦争遂行のための徴発も受け入れることを余儀なくされた。 
 
・同年、日本は「帝国の対韓方針」を閣議決定した。軍事・外交・財政・交通・通信・拓殖の6大綱領を定め、今後の植民地化の基本プランがここで練られた。 
 
・日露戦争の終了  1905年 
  朝鮮の保護国化のマスタープランを日本で閣議決定 
 
・「第二次日韓協約」  韓国の保護条約を締結する 1905年 
 外交の自由を大韓帝国は失った。統監府が韓国に設置されることになった。伊藤博文が初代統監になる。 
 
・全土で土地調査を行う  1906年 
 
 日本の大資本が大韓帝国内に進出・投資 
土地価格は日本の10分の1〜30分の1ほどだった 
 大韓帝国内に日本人地主が生まれる 
 
・第三次日韓協約 1907年 
 
 日本人顧問が正式な韓国官吏にも就任できるようになった 
 つまりこの協約によって内政統治権を掌握した 
 
・日本統治に対する反乱が度重なって起こる 
 反乱を起こす義兵に対して徹底的な弾圧を行い、日本軍に非協力的な村では虐殺・焦土作戦を敢行した 
 
・韓国併合   1910年 
 
 
 趙景達氏の年表な記述をもとに歴史の流れを大まかに列記していくとこのようになりました。日清戦争、日露戦争、日中戦争と(第一次大戦を別にして)すべての戦争が朝鮮半島の植民地化と結びついています。 
 
  今こうして見ていくと、日本は外国の治安維持を名目に派兵し、現地で親日政権を打ち立てようと策謀し、軍事侵攻と同時に民間企業や民間人の進出を進めています。これが朝鮮半島の植民地化のあらましのようです。 
 
  「戦争」 → 「改革」 → 「企業進出&投資」 
 
 という流れは今も中東や各地で起きていることです。去年は戦後70周年とされましたが、いったい「戦争」はいつから起きていたのでしょうか。1941年からでしょうか?それとも?朝鮮の植民地化を見ていると、江華島事件まで遡れるようにも思えてきます。日本の明治維新が1868年であったことを考えると江華島事件の起きた1875年までわずか7年です。欧米との不平等条約を改正することに情熱を傾けていた日本がわずか数年で不平等条約を逆に押しつける国に豹変してしまったことを物語っています。 


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