2016年05月29日11時37分掲載
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沖縄/日米安保
海兵隊の経歴、そして日本の切り札「第10条」
元米海兵隊員による女性遺体遺棄事件をきっかけに、沖縄では、駐留の米海兵隊の撤退、さらに県内にある全ての米軍基地の撤去を求める声が広がっている。まさに我慢の限界ということだ。
容疑者の元隊員は、幼少のころは大人しい気弱そうな子だったと、故郷ニューヨークの実家近くの女性が話していた。海兵隊での勤務が彼を変えたのか。
旧聞に属することかもしれないが、二つばかり確認しておきたい。
一つは、海兵隊の侵略者としての経歴、本質だ。戦前の海兵隊の幹部、スメドレー・D・バトラー将軍が書いた文章がある。彼は米国の軍人の最高栄誉である「名誉勲章」を2回も授与された超エリートだったが、退官後の1935年にこんな告白をしている。
「私は33年と4ヵ月、わが国のもっとも敏捷な軍事力である海兵隊の一員として現役任務を経験した。私は少尉から少将まで全ての任官の階級を勤めた。そしてこの期間、私はその日々のほとんどを、大企業とウォール街と銀行家のための高級雇われ暴力団員として過ごした。端的に言えば、私は資本主義のためのゆすり屋であった」
「1914年にはアメリカの石油権益のために、メキシコ、特にタンピコを安全にする手伝いをした。私はハイチやキューバを、ナショナル・シティ銀行の連中が税金を徴収するのにふさわしい場所にするのを助けた。私はウォール街のために、10あまりの中央アメリカの半分の国々を略奪するのを助けた。ゆすりの経験は長い。1909−12年にはブラウン・ブラザーズ国際金融会社のためにニカラグアの浄化を助けた。私は1916年、アメリカの砂糖の利権のためにドミニカ共和国に火をつけた。1903年には、アメリカの果物会社のためにホンジュラスを申し分のないものにした。中国では、1927年に、スタンダード石油が妨害を受けずにやれるように手助けした」
「私は、勲章と叙勲と昇級で報いられた。振り返ってみるとき、私だって(ギャングの)アル・カポネに1つや2つくらいのヒントなら与えられたのではないかという気がする。カポネにできたのは、せいぜい市内の3つの区域でゆすりを働くことだった。われわれ海兵隊は3つの大陸でそれをやったのだ」(『コモン・センス』誌1935年11月号より)
沖縄にはスメドレー・D・バトラーという名前を冠した基地がある(キャンプ瑞慶覧の一部)。彼は、退役後にこうした反戦的な考えを表明したが、沖縄の海兵隊は、彼の現役中の“功績”を今も称えているわけだ。ベトナム戦争、イラク戦争などは海兵隊がバトラー将軍に続く功績をあげようとしたものといえよう。
女性遺体遺棄事件の容疑者は、そうした組織で青春時代を過ごしている。
もう一つ確認したいのは、基地被害を根絶する切り札だ。それは、日本への米軍基地の展開を認めた“日米安保条約”そのものの中にある。第10条の次の項がそれだ。
「この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後、一年で終了する」
日米安保条約は1960年6月に発効した。つまり、10年後の1970年以降は、日本側から“もう終わりにしよう”と通告さえすれば、アメリカ側が何と言おうと1年後には条約は効力を失い、米軍基地が日本国内に存在する法的根拠はなくなる。つまり、すべての米軍は撤退し、基地はなくなるのである。
沖縄で高まる「全ての基地なくなれ」の声が、切り札である日米安保条約第10条という存在に国民の注目が集まることを、日米両政府は恐れている。(西条節夫)
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