2016年05月31日04時24分掲載
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コラム
2016年の「自由からの逃走」 なぜ独裁者が選挙で生まれるのか
ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロム(1900−1980)が書いた「自由からの逃走」という本はナチズムがなぜドイツで熱狂的に受け入れられたか、ヒトラーがなぜ独裁政権を打ち立て、やりたい放題の政治ができたのかを分析した本である。
本のタイトルは変わっている。「自由からの逃走」。一度目にしたら忘れられないタイトルだ。人は本来自由を好みそうなのに、自由から逃走する、というのはどういうことか?ナチス・ドイツが台頭したドイツの1930年代から敗戦にかけてがまさに、ドイツ人が自由を捨ててしまった時代だと言う。
フロムはその鍵を「権威主義的性格」に見出す。ドイツは第一次大戦で連合国に敗れ、巨額の賠償金が求められることになった。その結果、経済はハイパーインフレーションに見舞われ、失業率は記録的な高さに及んだ。この未曽有の国難に際して、ドイツ人の大衆は自分でものを判断して自由に生きることに困難を感じるようになった。それよりも、自分たちの思い=口惜しさや国家再興の夢=を代弁をしてくれるパワフルなリーダーにすべてを委ねて、ついていくことの方が精神的に楽だったという。この精神類型が権威主義的性格とされる。自分より高位とされる何かに盲目的に服従する精神の持ち主だ。逆に自分より下位にあるとされる存在にはどこまでも冷徹かつ残酷にあたる。そうした上下関係にあることで主体的に責任をもってものを考え判断する重圧から解放されるのだ。そんな権威主義的人間には対等な人間関係などなく、常に自分より上か、下か。だから、本質的に平等な対話を重視する民主主義とはなじまない。人間社会に平等などなく、序列社会だということが意識の前提となっている。このことは上意下達を本来とする軍国社会と親和性が高い。
1930年代のドイツでは苦しみの原因が外国人やユダヤ人にあることをヒトラーは指摘した。だからドイツ人が一つになれば再びドイツ民族(アーリア民族)が台頭して世界一優れた文明を再構築できる、と彼らは信じた。ヒトラーはドイツ人こそ世界を再興する力を持った優れた民族だとした。ヒトラーが「わが闘争」の中で提唱したこのような世界観にドイツの大衆は心酔し、進んで自分たちの自由を放棄していく道を選んだ。なぜなら、自由は責任を伴うし、多くの情報の中から正しい道を選ばなくてはならず、それは簡単ではないからだ。民主主義はジャーナリズムが提供する情報をもとに錯綜した現実の中で対話と民主的プロセスによって政治を動かす仕組みだ。これは簡単ではない。だから、長年にわたる戦争や不況で疲れ果てたドイツ人はもっと早く、手っ取り早く自分たちの自尊心を満たしてくれる統率者を政治のリーダーに迎えたかった。頭を使う緻密な分析よりも、すべての困難を「ユダヤ人のせいだ」と語ってくれる指導者の方がドイツの大衆にとっては心地よかったに違いない。そこでヒトラーは首相になって間もない1933年に全権委任法を制定して、一応時限立法の体裁を取っていたとはいえ、首相自ら法律を制定できる存在となった。ヒトラーの首相就任からわずか1年のうちにワイマール憲法は死に体と化した。
この病的精神のプロセスは時代と場所を超える普遍性を持っている。今、日本で強いリーダーが待望され、中国や北朝鮮やロシアなどの周辺国と戦えるリーダーが好まれている理由も1930年代のドイツに似ているのではないだろうか。国が困難にある理由を短い言葉で語ってくれる指導者、それが安倍晋三首相である。憲法の縛りを気にせず、これまで代々の政府ができなかった憲法の改正や自衛隊の正規軍化、さらには核武装まで楽々とこなしていきそうな首相である。安倍首相が根強い支持を日本国民から得ている理由はそこにあると思う。彼らの解釈では日本が国難にある理由は外国人や反日勢力の仕業ということになるだろう。
安倍首相がこのように台頭する背景には1980年代のバブル経済と90年代以後の失われた20年間の不況があった。80年代のバブル経済は金がすべての物差しになる時代を生んだ。その結果、日本人は勝ち組と負け組に二分されるようになった。負け組は人間として弱いという罪をもった存在だと考えられるようになった。金を稼げる人間は人間としても格上の存在であり、稼げない人間にはどこか欠陥がある。こうした価値観が日本を覆っていった。その結果、会社が倒産したり、解雇されたりした人々は逃げ場を失い、以後、数十万人の日本人が寂しく自ら命を絶った。90年代にはその上さらに大地震やテロがあり、つい昨日まで世界一の経済大国としての栄耀栄華をつかみとる夢を見た日本人の心はぼろぼろになるまで、傷つけられた。だから、「日本を取り戻す」という言葉で一見その心を代弁してくれ、「一億総活躍社会」「経済で結果を出す」で日本人の誇りを回復してくれそうな安倍首相に日本国民の一定の数の人びとが強い支持を与えているのではなかろうか。
だからこそ、安倍首相の強権的な議会運営や強行採決などの民主主義からの逸脱そのものも、むしろ、好ましいイメージに反転しているのではなかろうか。今まで民主主義でやってきて未曽有の不況と国難にさいなまれているのだから、憲法そのものを変えて、強いリーダーが統率力を発揮して、日本人本来の政治を築いてほしい・・・。こういう思いが、何度となく支持率が下がっても下がっても再び上がり始める安倍首相の追い風となっているのではないかと思う。国会の議論などいらないから、力のある人間にすべて決めてほしい。だからこそ、いかに安倍首相の強権的な政治姿勢を知識人やジャーナリストが批判しようと、安倍首相の支持率は落ちることがないのではないだろうか。2013年の暮れに憲法に抵触している特定秘密保護法が制定されたときも、閣議で解釈改憲を決定した時も、その後の選挙で安倍政権は勝利し、どんな批判があろうと最終的に日本国民が追認したと言うことができるようになった。議会民主主義的な手続きを日本国民は重大視していなかった、と言われてもおかしくない選挙結果が2度、3度と続いているのである。これは日本国民がメディアに騙されているからではなく、むしろ、そうした民主的手続きはさして重要ではない、と見る日本国民の一貫した「気分」が反映されていると思う。このことは自分より高位の人間が重要なことは決めてくれたらよい、と考える権威主義的人間が多くなったことを示唆するのではなかろうか。
そして、今、日本国憲法が改正される前夜にある。夏の参院選で自民党と公明党が3分の2を確保したら、改憲の手続きが始まることになる。自民党の改憲案は「個人の尊厳」という言葉を捨てるものであり、つまりは「自由からの逃走」を意味する。今持っている市民的自由を捨てて、強いリーダーのもとに自己を委ねたい、そんな人が増えているのだろう。安倍首相のもとで日本のジャーナリズムが機能不全になっていることが指摘されているが、それは「自由からの逃走」というテーマを考えてみれば偶然ではなく、必然的な事態である。自由から逃走するということは、現実を自分の頭で考えたり、判断したりしない、ということとイコールなのである。情報などは不要だ。選択肢はもういらない。面倒なことはすべてリーダーに任せればよい、ということだ。新聞は読者が自分でものを考えたり、判断したりしないような紙面を作ろうとしているかのようだ。首相は「この道しかない」と言った。だからこの先、どんなことがあろうといいんだ、とにかくあの人について行こう。これが2016年の自由からの逃走なのだと思う。
■ヒトラー首相就任とワイマール憲法
「ヒトラー内閣成立後間もない2月22日、国会議事堂放火事件が発生した。 ヒトラーはヒンデンブルクに迫って民族と国家防衛のための大統領令(ドイツ語版)とドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(ドイツ語版)の二つの大統領令(ドイツ国会火災規則(ドイツ語版))を発出させた。これにより、ヴァイマル憲法が規定していた基本的人権に関する114、115、117、118、123、124、153の各条は停止された。ヒトラーとナチ党はこの大統領令を利用し、反対派政党議員の逮捕、そして他党への強迫材料とした。また地方政府をクーデターで倒し、各州政府はナチ党の手に落ちていった。この時点で他の政党には、ナチ党の暴力支配に抵抗できる術はなくなった。
この状況下で制定されたのが『全権委任法』である。ヒトラーは憲法改正立法である全権委任法の制定理由を「新たな憲法体制」(Verfassung)を作るためと説明した。この法律自体ではヴァイマル憲法自体の存廃、あるいは条文の追加・削除自体は定義されなかったものの、政府に憲法に違背する権限を与える内容であった。当時の法学者カール・シュミットはこの立法によって憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと解釈している。こうして事実上ヴァイマル憲法による憲法体制は崩壊した。」(ウィキペディア)
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