2016年06月01日13時12分掲載  無料記事
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安倍政権を検証する

伊勢神宮とG7 日本が「神の国」であることを象徴的に示そうとした安倍首相

  伊勢神宮の鳥居の前でG7の首脳たちが記念写真を撮影した。そして伊勢神宮に彼らは記帳し、それぞれの言葉で敬意を述べた。日本国内の報道では政府は政教分離に抵触しないように「参拝」という言葉を避け、「訪問」という言葉で表現したと言う。しかし、たとえそうであっても英国のガーディアンのように政教分離原則に抵触していることを示唆する報道が外国メディアでは行われた。’G7 in Japan: concern over world leaders' tour of nationalistic shrine’(日本でのG7:世界のリーダーがナショナリズムの神社に出かけることに対する懸念)と言うタイトルの記事がそうだ。 
 
  安倍首相が神道政治連盟に属し、戦後レジームを否定する政治観と、今回のG7の伊勢神宮訪問が根っこで結びついていることを述べている。さらにこう述べている。 
 
“Ise Shrine is clearly an important historical and cultural site, so it would usually not be seen as a problematic place to visit,” said Mark Mullins, professor of Japanese studies at the University of Auckland. “But given that this religious site is central to the larger political vision Abe has in common with the Shinto Association for Spiritual Leadership, it will undoubtedly be viewed by critics as a strategy to gain legitimacy for their shared neonationalist agenda.” 
 
  オークランド大学のマーク・マリンズ教授の言を引きながら、安倍首相が自分の政治観をオーソライズするためにG7のリーダーたちを利用したと批判的な人々から見られても仕方あるまい、と。 
 
  そもそも伊勢志摩にG7の開催場所が決まった時から、安倍首相の狙いは日本に住んでいる人ならわかっただろう。それは神道が日本古来の「文化」であり、単なる1つの宗教ということにとどまらず、日本人の心の原点であることを安倍首相がG7の首脳に示そうとしたことだ。そして、彼らの支持を取り付ける映像を日本国内のメディアで大々的に報道させることによって、神道を憲法的な秩序に組み込もうということである。そのことは自民党の憲法改正案の中に、信仰の自由は認めつつも、文化として慣習として行われてきた宗教的な行為は政教分離原則から切り離して、認めさせようとしている条文が存在することだ。 
 
 「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」 
(自民党の憲法改正案 信教の自由 第20条の3 ) 
 
  現在の日本国憲法では信教の自由の原則に、このような但し書きは一切ない。 
 
  今回の伊勢神宮への「訪問」はまさに自民党改憲案に沿った憲法改正後の新たな政教分離のガイドラインに沿っていることが感じさせられる。集団的自衛権でもそうだが、今回も内閣で勝手に改憲を実質行ったと見ることは可能ではないだろうか。 
 
  従来、国と神道の関係は法学部の学生であれば最高裁の判例で学ぶ必須事項だったはずだ。その代表的なケースがいわゆる「愛媛県靖国神社玉串訴訟(えひめけん やすくにじんじゃ たまぐしそしょう)」である。 
 
  「愛媛県知事が、戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことにつき争われた訴訟。最終的に最高裁が違憲判決を出した。この判決は最高裁が政教分離関係訴訟で下した初めての違憲判決である」(ウィキペディア) 
 
  訴訟理由は「愛媛県知事であった白石春樹は、靖国神社が挙行する例大祭や県護国神社が挙行する慰霊大祭に際し玉串料、献灯料又は供物料を県の公金から支出していたが、この行為を憲法20条3項および89条に違反するものとして、浄土真宗の僧侶を原告団長とする愛媛県の市民団体が、地方自治法の規定に基づき県に代位して支払相当額の損害賠償訴訟を提起したものである」(ウィキペディア) 
 
  太平洋戦争において日本が「神の国」を歌う国家神道のもとで戦争の惨禍を経験したことから、戦後は政治と宗教を切り離すことが求められ憲法にも政教分離原則が盛り込まれた。愛媛県靖国神社玉串訴訟はまさにそのことが問われた裁判であり、国が負けている。以前、自民党の森喜朗首相が日本は「神の国」であると演説会で語ったことで大きな批判を受けたことは未だに記憶に新しいことだ。 
 
  とくに靖国神社にはA級戦犯も祀られていることから、かつて日本と戦った米国や中国などから、首相や政府要人らの靖国参拝が強い批判を受けてきた。そこでだろう、今回の伊勢神宮へのG7の訪問は正面突破を避け、旧連合国であれど否定しがたい形で裏側から、神道を国の中心に据えることに世界から承認を得た、という映像を創り出すことに安倍首相は成功した。神道は1宗教ではなく、日本文化の象徴なのであるから、国政においても行事を執り行うことに問題はない、という既成事実を世界首脳を交えて創り出したのである。 
 
  このことは自民党の憲法改正案に記載された「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」がどのような具体的な中身を持っているかを想像させるものだ。自民党の案に沿って憲法が改正されれば神道は「社会的儀礼又は習俗的行為」の範囲で教育や宗教的行為を国や地方自治体が執り行ってよいことになる。政教分離原則のもとでも、教室で儀礼や習俗の範囲なら、宗教的行為を行ってよい、というのである。何をもって「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」とするかは、本来、最高裁の管轄だろうが、今回のG7の訪問1つとっても最高裁が何かを述べる、ということは事実上なかった。そして推察すれば本当に憲法が改正されていたとしたら、今回のG7も「訪問」ではなく、「参拝」だったであろうことである。 
 
  政教分離という原則でキリスト教や仏教やイスラム教などの宗教を排除した上で、神道だけは日本文化と歴史的に結びついているという理由で神道を政治の場に活用することを事実上、認めさせることに安倍政権は成功した。集団的自衛権の解釈改憲を閣議決定した時もそうだったが、安倍政権は憲法改正以前に実質的に今の憲法を形骸化させ、憲法が実質的に容易に変えられることを示し、法の番人であるべき憲法の価値があたかも下落したかのような印象を社会に浸透させ、そのことによって憲法改正への日本国民の心理的抵抗を小さくする作戦を取っているのだろう。 
 
 
 
■森喜朗首相の「神の国」発言 
 「2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会において森喜朗内閣総理大臣(当時)が行った挨拶の中に含まれていた、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々(=神政連関係議員)が頑張って来た」という発言」(ウィキペディア) 
 
■首相、伊勢神宮参拝 11閣僚も 政教分離に違反(2015年1月 赤旗) 
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-01-06/2015010602_03_1.html 
「首相による年頭参拝は、戦後、1955年に鳩山一郎首相が参拝。58年に岸信介首相(安倍首相の祖父)が参拝後、「伊勢神宮は一般の宗教法人と同等に扱えない」と発言し、戦前に逆戻りするような動きを強めてきました。67年に当時の佐藤栄作首相が参拝してから連続しています」 
「伊勢神宮は、天皇家の氏神とされる「天照大神」を祭る宗教団体で、侵略戦争推進の役割を果たした国家神道(神道の国教化)の頂点に位置づけられた歴史があります」 


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