2016年06月14日15時50分掲載  無料記事
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安倍政権を検証する

自民党憲法改正案  表現の自由を制限する21条2項

  参院選後に予定されている自民党による憲法改正の試みですが、憲法改正案は憲法の意味をまったく変えてしまう性質のものです。個別に1つ1つの条文を見てみると、個人の尊重の削除をはじめとして様々な問題があります。 
 
  たとえば表現の自由を規定した憲法21条です。自民党の改正案では従来の条文の後ろに但し書きがつけてあるのです。 
 
●自民党憲法改正案 第21条 
「・集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保証する。 
・2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない。 
・3 検閲はしてはならない。通信の秘密は侵してはならない。」 
 
  現行憲法は1と3(3については文言が少し変わっているが意味自体は変わっていない)だけで、2はありません。 
 
  「 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない。」という2項の但し書きは国家公安当局が「公益」とか「公の秩序」をどう解釈するかで大きく変わってくるところで、政治的な意図や判断が加わる余地の高い条文です。 
 
  平たく言えば「公益や公の秩序を害する集会・結社・言論・出版その他の表現活動は禁じる」と言っています。2013年に当時の石破幹事長が国会周辺のデモを差して「テロ行為」と表現したことで批判を浴びたことがありましたが、どのようなデモであれ批判される政府からすれば「公益や公の秩序を害する」と見えてもおかしくありません。 
 
■実質的な検閲につながる可能性 
 
  前にも書きましたが、放送業界や映画産業など、制作活動に一定以上の製作費がかかる分野の表現活動の場合、製作後に政府に上映禁止とか、放送禁止などの措置を受けると大きな損害となります。そうなると、事前に政府の承諾を得て安心して上映や放送をしたいと考えるプロデューサーが多いだろうことは予測されることです。つまり、3項で「検閲はしてはならない」とされますが、実質的には上映や放送の差し止め措置を受けないために、自主的に「検閲」を申し出る製作主体が出てきてもおかしくありません。 
 
  そのことは今年2月の衆参予算委員会で、高市早苗総務大臣が<放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返せば、放送法4条違反を理由に電波法76条に基づき停波を命じる可能性がある>と恫喝したことと重なってきます。その際、番組のラインナップ全体の傾向から判断して電波を止めるだけではなく、1本1本の個別の番組でも政治的公平性を欠くと政府が判断すれば電波を止める可能性があることを示唆したことは大きな批判を浴びました。高市総務大臣の発言と、自民党の憲法改正案は響きあっているように思われます。 
 
  そもそも放送ジャーナリズムは権力批判と切り離せないものであり、その際、放送局が最大の権力者である内閣や与党に批判の目を向けることは当然のことです。それを内閣とはいえ1つの政治結社に属する総務大臣が「政治的公平性を欠く」として電波停止の権限を持つ、というのは、「政治的公平性」の判断において総務大臣が「政治的公平性」を欠く可能性が極めて大きく、放送ジャーナリズムの否定以外の何物でもありません。 
 
  同様のことはデモやストライキなどを通した政府批判の行動を封じることにも可能性としてつながってきます。また政府批判を暗に含む歌曲や漫画なども禁止される余地があります。そして、あまり注目されていないかもしれませんが、もっとも大きな打撃を受けるのは出版活動かもしれません。というのは放送などの産業はそもそも、記者クラブなどを通してすでに多かれ少なかれ政府にコントロールされています。しかし、基本的にアナーキーで比較的少額で、かつ自由に表現活動ができた出版においても、「公益」とか「公共の利益」という枷が憲法でかけられることの意味は大きいと思います。というのはこの憲法をもとにして、出版を規制する法律を作ることは容易なことですし、法律を特に作らなくても、この21条2項だけで、政府批判の出版を差し止めることが可能になるでしょう。中国では習近平国家主席を批判する本を出すことは実質的に不可能ですし、香港では当局に出版人らが拉致された事件があったことは記憶に新しいことです。表現の自由が政府に規制された、風通しの悪い国になることは避けたいものです。 
 
 
■個人の表現が認められなくなる日 
 
  自民党の憲法改正案21条は憲法改正案13条の「人としての尊重等」に関連しています。これは今回の改憲のなかでも最大級の改変です。もともと「個人の尊重」とか「個人の尊厳」をうたったのが13条です。戦後の憲法の原点とも言えるものです。ところが自民党の改正案はそれを否定したのです。 
 
 現行憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」 
 
     ↓ 
 
  自民党の憲法改正案13条「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」 
 
  上の2つを見比べれば現行憲法の「個人として尊重される」が「人として尊重される」に変わっていることに注目しないといけません。もう国民は個人としては尊重されないと明白にうたっているのです。 
 
  このことは表現の活動が個人の内面に立脚する行為であることから考えると、大きな問題を孕んでいます。個人としては尊重されないが、人として尊重されると言うのはどういうことなのでしょうか? これは人が個人ではない、ということですから、人が集団性を基盤にしていて、集団の中の1人としてなら尊重されるが、個人としては尊重されない、と言っていることを意味します。この改正案の13条と21条が響きあえば、個人の表現は尊重されず、共同体の中の一人としての表現なら尊重される、と言っているようなものです。逆に言えば共同体の価値観に反する個的な表現の自由は許されないことにもつながりかねません。たとえて言えば、みんなが「白い」と言っている時に「青い」とか「黄色い」と言うことはもう許されなくなることを意味するのではないでしょうか。「みんながいいと言っているのだから、お前もいいと言え」と言うような集団の価値観を個人にも強要する時代が来ることを感じさせます。今回、あちこちで顔を出している「公益」という言葉は、集団の価値を意味する言葉であり、個人は集団の価値観に従え、と言っているものです。集団の価値観に反するような個人の自由は認められない、と言っているのです。 
 
 
 
■自民党の憲法改正案 
(平成24年決定 自民党憲法改正推進本部) 
http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf 
 
 
■今回の自民党の憲法改正案と、その後に続くであろう憲法改正 実質は改正ではなく憲法の廃棄 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201606122203480 
 
■参院選と改憲 戦後の自由を保証した個人主義の終焉の年となるか 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201601271152383 
 
■自民党憲法改正案「第十三条 全て国民は、個人として尊重される」(現行) ⇒「第十三条 全て国民は、人として尊重される」(改正案) 個人と人の違いとは? 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509172355524 


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