2016年07月08日17時56分掲載
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林健太郎著「ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの」(中公新書) ヒトラーを頂点に押し上げた大工業資本家たち
今度の日曜日の参議院選挙は自民・公明が日本国憲法を改正できるかどうか、参院で改憲を発議するための3分の2の議席を狙う、戦後最も注目される選挙になっています。安倍政権の幹部である麻生太郎氏は以前、憲法改正はナチスに倣って国民が気が付かないように静かにやるべきである、という意味の発言をして国際社会から批判を浴びたことがありました。安倍政権を支える日本会議のイデオローグである憲法学者・百地章氏もあるインタビュー記事(BuzzFeed「安倍政権と「日本会議」 理論的支柱が明かす改憲への道筋 〜視線はもう参院選にはない〜」) でワイマール共和国を研究したと語っています。そこで、世界一民主的と言われたワイマール(ワイマル)共和国をナチスが解体していくプロセスを検証した林健太郎著「ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの」を読みました。
興味深いのはヒトラー台頭の地盤となったミュンヘンというドイツ南部の都市です。ここはバイエルンという州の州都に相当します。当時ワイマル共和国は基本的に自治を行う20ほどの州(ミニ国家)から形成されていました。「州(ラント)はドイツ帝国時代の連邦諸国が元となって構成されており、強い自治権力を持っていた。独自の警察・議会・内閣を持ち、司法権も各州の管轄下にあった」(ウィキペディア)
第一次大戦の終盤、戦争の主軸だったドイツでは厭戦の願いが強まり、各地でストライキが激化していました。そうした中、1918年にドイツは戦争に敗れ、11月に王政を敷いていたバイエルン王国では王が退位し、さらに翌年には共産革命が起きました。この革命は中央政府が送った軍によって鎮圧されますが、保守的な風土のバイエルンの人々に衝撃を与え、のちに激しい反共の波が起きていきます。その渦中にいたのが第一次大戦後、ミュンヘンに引き上げていたヒトラーでした。ヒトラーはもともとウィーン出身ですが、ドイツに移住しておりのちに政治家となるに際して、ドイツ国籍を取得します。
第一次大戦後、世界一民主的ともいわれた憲法を持ったワイマル共和国。その州の1つ、バイエルンでヒトラーが参加していたナチスは当初は社会主義を標榜し、資本主義を攻撃してインフレに苦しんでいた低所得者を引き付けていました。
「彼の運動の熱心な党員や支持者からの拠金によって賄われ、後年のような大資本家からの資金援助はまだなかった。すなわち、ナチスはあくまでも大衆運動として発展したのであって、これはナチスの掲げた政綱が生活の不安に悩む下層中産階級、青年層にアピールするものを持っていたことを意味する。その政綱には、戦争やインフレによって儲けた投機業者の財産没収や大企業の国営のような社会主義的要求が掲げられ、その実現のためにはユダヤ人の追放とヴェルサイユ条約の破棄が不可欠であることが熱烈に主張されていた。そしてその基礎にあったのはドイツ民族の優秀性に対する独断的、狂信的信仰である。ヒトラーはその教祖的性格によって多くの人々を魅了し、ミュンヘンの地方実業家や上流婦人のなかには進んで多額の献金を行うものもあった」
しかし、この当時、1920年代初頭まではナチス党はバイエルン州以外での活動を禁止されており、バイエルン州に極右が集結しているという異常な事態があったようです。そして、先ほど示しましたようにもともと保守的な風土だったところへ共産革命によって共産主義への嫌悪感、ソ連への不安などが保守層の中に湧き上がって、右翼の土壌を堅固にしていました。そして、ヒトラーはこのミュンヘンで一揆を起こし首都ベルリンへ進軍する夢を抱いていましたが、一揆の失敗で投獄され、そこでナチスの成功への大きなヒントを発見します。
林氏によればそのヒントとは社会主義的な綱領を廃止し、大資本を味方につける、ということ。もう一つはドイツ国軍を味方につけることでした。こうして潤沢の資金を得たヒトラーは合法的に政権をつかむ道を進んでいくことになります。当初は大企業の国営化などを綱領にしていたナチスですが、方針転換後は逆に資本家層が期待する反共産主義を掲げたのです。
「共産主義の進出によって自己の地位への危険を感じた大工業化たちは、ますますナチスをもってこの危険を防ぐための最も有力な道具と見なすようになった。彼らのあいだには、製鉄トラストの主ティッセンのように早くからヒトラーに大口の寄附をしたものもあったが、それはまだ例外的であった。しかしフーゲンベルクとの提携が成立して以後、ヒトラーは初めて大工業家のなかに資金ルートを見出し得るようになったのである。」
1929年にアメリカで大恐慌が始まり、のちに欧州にも波及していきます。そして、極右の台頭を恐れて米資本が引き上げたことがきっかけで、ドイツでは失業者が400万人を超える事態になっていきました。そうした苦境が強い指導者ヒトラーへの期待となり、ナチスの政権奪取を可能にしていくことになります。そして1932年、ヒトラーは大統領選に立候補しました。この時は二位にとどまりましたが、すでに政権奪取まであと一歩まで上り詰めていました。
「ヒトラーに対するラインラント、ルール地方の重工業家たちの支持が決定的となったのもこの選挙戦のあいだからであった。この年1月末、かねてからヒトラーへの資金援助者であったティッセンの斡旋によって、彼はデュッセルドルフの工業倶楽部で多数の工業家を前に一部の講演を行ったが、そこで彼が共産党のみならず、社会民主党や労働組合を徹底的に攻撃し、ナチスの政権獲得後の再軍備を約束したことは、工業家たちに多大の感銘を与えた。以後、ヒトラーの資金は極めて豊富となり、選挙に際して彼はヒンデンブルク側よりもはるかに潤沢な金を擁していたといわれる」
1932年、ドイツの失業者は600万人を超え、こうした中で潤沢な資金を得たナチスは総選挙で第一党に躍り出、大統領のヒンデンブルクから首相の座を得ることになります。ヒトラーが翌年の1月に首相に就任してすぐに行ったのが国会議事堂の放火と共産党員などの逮捕で、その後、議会で内閣が緊急時に立法権などを得ることができる全権授与法(4年の時限立法)を制定します。この全権授与法では憲法違反の法律も内閣が制定でき、これによってワイマル憲法は実質的に無効となったのです。これでヒトラーがまずやったのが政党禁止法の制定で、以後、野党は禁止されナチスの一党独裁時代が始まります。ナチスは全権授与法を4年ごとに、その崩壊まで継続していきました。
こうして林健太郎著「ワイマル共和国」を読んでいくと、ヒトラーが当初の少数政党から、第一党になるまでの脱皮において、ドイツ大企業の関与が色濃く見えてきます。ファシズムを養ったのはまさにこれらの大企業でした。ここまで読んで思い出したのはヒトラーが台頭したナチズムの生誕地、ミュンヘン郊外にあるダッハウ強制収容所に展示されていた1枚の絵でした。それはジョン・ハートフィールドのデッサンだと後で知ったのですが、ハートフィールドは戦前・戦時中、ヒトラーの風刺画で世界的名声を博した風刺画家でした。その1枚は金貨を飲み込んだヒトラーで、レントゲン写真のようにヒトラーの喉に大量の金貨が詰まっているのです。ハートフィールドの風刺画がダッハウに掲げられていた理由を担当者はこう教えてくれました。
「ハートフィールド自身はダッハウと無縁です。ではなぜ記念館で過去にハートフィールドのデッサンを展示していたのか。その理由はヒトラーが政権を取る1933年の直前に、ヒトラーとドイツの主要な産業界がいかに手を携えていたかをハートフィールドの一連の絵から容易に見て取る事ができたからです。」
この教訓が決して過去のドイツの物語で終わってはいないことを今日、感じている人は多いでしょう。
■安倍政権と「日本会議」 理論的支柱が明かす改憲への道筋
視線はもう参院選にはない(BuzzFeed)
https://www.buzzfeed.com/satoruishido/nipponkaigi-mezasu-kaiken?utm_term=.ayEyxkN7Ng#.ftEkE2yWyj
<「私の修士論文は、当時の西ドイツ、ワイマール憲法の緊急権の研究だったんです。私は国家論をやりたかったから。そう考えると感慨深い」としみじみと話す。>
■ダッハウ強制収用所の1枚の絵 村上良太
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