2016年07月24日11時24分掲載
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ド二・ディドロ作 「ラモーの甥」 格差社会に生きる太鼓持ちの哲学を辛辣に描く戯曲
フランスの啓蒙思想家で、作家でもあったディドロの代表作が「ラモーの甥」です。主人公は18世紀の著名な音楽家ラモーを叔父に持つ、「ラモーの甥」という中年男です。ラモーの甥は物まねやお世辞、貴族の子弟のための恋の助っ人などが得意で、そういう太鼓持ちの才能をいかんなく発揮して貴族に飯を食わせてもらってきた男。寄食している関係で、食にありつけるのが不定期なのか、食べられるときにはガツガツ食べることに専心するようです。そのため、時々で肥満したり、痩せていたりと体形が変化すると書かれています。
そんなラモーの甥は、たった一度だけ最近、会食の場で政治の話をまじめにしたために、放逐され、寄食する場を失って路頭に迷っているのでした。そのため、今ではすっかりしょげてしまい、太鼓持ちは太鼓持ちに徹して世直しのことなど考えず、貴族への追従に徹し、金儲けに専念しないといけないと言い張ります。そうしたラモーの甥とディドロを彷彿とさせる哲学者がカフェで夕方まで数時間対話するのが「ラモーの甥」です。対話体の小説とも、戯曲ともみられ、実際にフランスではかなりコミカルに舞台で上演されています。
https://www.youtube.com/watch?v=WsBBWkYG72I
岩波で出ている本田喜代治・平岡昇の訳は昭和19年が最初の訳で、その後、戦後に再版されているとはいえ、訳自体は全体に古びてしまった印象があります。だからとも言えますが、ラモーの甥のような存在を日本で今、どのように把握すればよいのか、見えにくくなっているのかもしれません。貴族に寄食する存在、というものが戦後、復興を遂げ、経済成長して全体的に豊かになった日本の社会では失われた印象もあります。
3年前、パリではド二・ディドロの生誕300周年ということで、書店に関連書籍が積まれて、啓蒙思想家が今の時代にも読み継がれているのだな、と感じました。ルソー、ヴォルテールと並んでディドロも堂々と書店に並んでいます。それに対して日本では啓蒙思想家が、中でもディドロが最も埋没し、忘れられてしまっているのではないか。そんな淋しい気がします。岩波文庫を見ると、ディドロは代表作である「ラモーの甥」はもちろん、太平洋の島をフランス人の宣教師らが訪ねて地元酋長と珍問答を繰り広げる「ブーガンヴィル航海記補遺」、啓蒙思想家の象徴的作品「百科全書」、「百科全書」を編纂した仲間をタイトルに付した「ダランベールの夢」、芸術や絵画を論じた「絵画論」など、点数を見るとたくさん出版されていて、かつては日本でもディドロはもっともっとポピュラーな作家だったように思えます。
それでこの3年間、思い続けてきたのはディドロの日本での埋没感はなぜなんだろう、ということでした。1つの仮説としてはディドロの研究者自体が減少して、アカデミックな世界でも話題になる機会が減っているのかもしれません。ディドロに限らず昭和の日本では啓蒙思想家の本が今よりずっとたくさん、読まれていたように思いますし、そのことは戦後、憲法が変わって、民主主義の祖先の1つフランスの源流をたどりたい、という思いが強かったのだろうと思います。ちなみに岩波文庫で「ラモーの甥」を翻訳した本田喜代治・平岡昇氏らは同文庫からルソーの「人間不平等起源論」も出しています。
かつて芸術や道化など、文学芸術は王侯貴族のためのものであり、それがブルジョワ市民層の増加によって、市民・平民も金さえあれば芸術のパトロンになれる時代が訪れました。「ラモーの甥」が書かれた18世紀半ばはその過渡期ではないでしょうか。その後、「自由・平等・友愛」を掲げた市民革命とともにより多くの市民が、貧乏人を含めて、学術や芸術の恩恵をこうむることができるようになりました。だから、市民社会が成立した今日から見ると、「ラモーの甥」という貴族に寄生する存在がなくなった気がします。
とはいえ、ここにきて、全世界的に時代が逆行しつつあり、貧富の格差が生まれ、次第に庶民から学術や芸術が再び遠いものになろうとしているかのようです。大学に通える人がだんだん少なくなり、いずれは憲法も変わり、選挙も一定額以上の税金を納めない人は選挙権がなくなるかもしれません。そうなると、市民が今以上に貧困化して学術や芸術に投資できなくなる半面、富裕層はより豊かになって富裕層が芸術・文化を支え、そこに道化や太鼓持ちもまた食い扶持を得る時代が来るかもしれません。ということは芸術家や知識人も、ラモーの甥のような太鼓持ちも道化も皆総じて、富裕層に寄生して生きる時代が到来する兆しがあります。
ディドロの面白さは、A 対 B という古典的な対立葛藤を対話に持ち込み、そこに風俗と風刺漫談的な話をふんだんに注いで、飽きさせない芸に磨き上げていることにあります。18世紀の啓蒙主義の時代ということはまさに保守派と革命派が激論を交わした時代であり、それぞれの主義主張の人たちで固まる傾向がある今のネット世界と違って、対立する考えの人間同士がぶつかり合う場になっています。そこにまさにディドロが今日、日本で再浮上してもよい理由があるように思えます。ディドロは意外と、自分に対立する保守派の思想や風俗をよく描いており、同時に啓蒙主義の自分たちを風刺するすべも心得ていたようです。でなかったら、単なる一方的なプロパガンダ作品に過ぎず、そうした作品であれば革命が終わったらゴミ箱に入っていたでしょう。ディドロが今日まで生き続けている理由は、双方の見方と風俗をリアルに風刺して描き出したことにあると思います。その意味では「ラモーの甥」は今日の日本の風俗に合わせて新訳が出てもよい頃ではないでしょうか。
■生誕300年 今も絶大な人気があるドニ・ディドロ 〜啓蒙思想家にして、風刺漫談作家〜
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■モリエール作「守銭奴」 〜現代の英雄〜
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■フランスからの手紙23 〜責任ある億万長者とは?〜パスカル・バレジカ
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