2016年10月02日11時11分掲載
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戦後とは何だったのか 江古田で「わたしの沖縄 あなたの沖縄」をみる 笠原真弓
9月24日から10月2日まで都内・江古田で「わたしの沖縄 あなたの沖縄」という連続上映会があった。ゲストが貴重なお話をしてくださる。24日の映画を観に行った。 『ひめゆり戦史 いま問う国家と教育』と『空白の戦史 沖縄住民虐殺35年』。森口豁(かつ)さんの日本テレビ時代の昭和54年(1979年。森さんは、普段は西暦派だが「どの天皇がこれをしたか」を特定したいときは、元号を使う)と55年に作った作品である。
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『ひめゆり戦史 いま問う国家と教育』と『空白の戦史 沖縄住民虐殺35年』。森口豁(かつ)さんの日本テレビ時代の昭和54年(1979年。森さんは、普段は西暦派だが「どの天皇がこれをしたか」を特定したいときは、元号を使う)と55年に作った作品である。
森口さんは高校時代に沖縄出身の後輩に、友人たちに真の沖縄を知ってもらいたいと沖縄ツアー誘われ、強い衝撃を受けてそのまま沖縄をテーマにした方である。その頃はまだ沖縄に行くには、パスポートが必要な時代だった。その後も校内で、複数回の沖縄ツアーを企画した。社会人になってからは、日本テレビに所属して、沖縄の映像を送り続けたということだ。
後33年、つまり戦死した人の33回忌を過ぎたころから、それまで口をつぐんでいた人々が、戦争体験をぽつぽつ語り始めたという。そんな気運の中で、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれた看護要員として動員された県立第一高女学校生の卒業式が執り行われた。卒業証書には当然なのだが、当時の本土から赴任した校長の名が記されている。この校長の名のもとに彼女らは生死の境をさまよい、211名が犠牲となった。
◆『ひめゆり戦史 いま問う国家と教育』
まだ小学生だったころ、『ひめゆりの塔』という劇映画を観た。かわいそうで泣いたし健気な姿に打たれたこと、それ以来「ひめゆり」という言葉は、私の中で特別なものになったこと、その後沖縄の戦跡を訪ねる旅に参加して、ひめゆりの塔の博物館でも涙があふれたことを思い出した。けれども、今回は最初の卒業式の場面で涙が出てきた以外、泣けなかった。ずうっと考えさせられていたのだ。どの場面にも森口さんの言いたいことが詰まっていた。
卒業式には、出てこない人もいる。遺族にも声をかけたが、遺族も来ない人がいる。生存者が5人だったという第三地下壕の生徒を中心に話を聞いていくが、質問に応じて当時の様子を語る人もいれば、自分は絶対に話さないと玄関を細めに開けて顔を見せずにシャットアウトした人もいる。その人は、毎年行ってきた生き残った友との墓参にも参加せず、日をずらしてごちそうを作ってお墓参りをしていたと人伝に言う。この人は、別の証言集に「獣慾に飢えた兵隊……」という鋭い言葉を残している。ある母は亡くなった娘をまだ待っていて、毎晩カギをかけないという。
森口さんは、誰が少女たちを死に追いやったかを追及している。圧巻は当時責任のあった2人へのインタビューだろう。まず、当時の校長西田一義。国家公務員として、本土から配属された校長である。インタビュー当時彼は杉並に家を構え、大学の教授になっていた。ひめゆり学徒隊を編成したのは、軍からの命令だったと迷わず答え、「俺も戦争の犠牲者だ」とぬけぬけという。彼は生徒たちに同行せず、生徒を見送ると安全と思われていた軍本部へ行った。本土に引き上げてから一度も沖縄には行っていない。
もう一人の生き証人、沖縄戦のトップスリーで唯一生き残った八原博通元大佐は、戦後、一切の軍関係(自衛隊など)の仕事に就かず、静かに生活していた。彼に幼い子どもを戦争に駆り出したことを問うと、自分は反対したが結果的には役に立ったという。言い出したのは県だったとの証言。ひめゆり学徒の派遣に対して、大人は誰も責任をとらないし、とってこなかったことが露呈した。
元生徒たちは、離島の親元に帰っていた人も、再三の電報で呼び戻されたり、旧沖縄師範女子部の生徒は、家族で疎開が決まっていたのに、疎開するなら4年間分の学費を返還するよう迫られ泣く泣く残った。いずれの人も亡くなっている。
米軍に追い詰められてくると彼女たちは、捕虜にはなれないと兵隊に手榴弾をもらった。いつでも死ねるようにだったが、それに気付いた先生はそんなことをしてはいけないと、その手榴弾を回収したという。でもみんなが死ぬのに自分だけ死ねなかったらどうしようかと不安だったといい、公民化教育は魔の力だと、教育って怖いですねと続けた。
これから戦争に向かっていく気配の中で、教育の内容も戦前回帰が言われている。孫世代や今後生まれてくる若い世代への危惧が高まる。
◆『空白の戦史 沖縄住民虐殺35年』
このドキュメンタリーは、沖縄戦で避難してきた村民のリーダーを、スパイ容疑で処刑した元兵隊の話しである。彼(森杉多)は、通信兵として沖縄戦に参加していた。その日、3人の南部からの避難者を山中に連れ出した。
雨の中森さんは山に入り、様子の変わった川筋をたどりながら、まわりの景色と記憶を重ねあわせてここと思しきところを掘るが、遺骨は見つからない。
一方、その時殺された義父の遺骨を探している女性がいる。彼女の家を森さんは訪ねる。机を挟んで、座る彼女の腕がこわばっている。
森さんの話を聞いた彼女は、間違えなく義父だと言う。森さんは、1人ずつ殺される間、縛った紐を逃げないように持っていただけで、逃がそうとも考えた。でもそうすれば、確実に自分も殺される。だから怖くてできなかったと話す。
次の日彼らは、雨の中、現地へ向かう。昨日の場所を小さなシャベルで掘るも、骨はない。彼女はハンカチを広げ、沖縄では遺骨が見つからない場合、その場所の石を遺骨として持ち帰ると言いながら、数個を包む。
森さんは空港に向かう途中、これで肩の荷が下りたと言う。そこに、若干の違和感を覚える私。とりあえずの、発言なのか?
彼女の戦後は、夫に戦死され、義父も殺されて女手で子どもを育ててきた。義父の最期を知った後、固い表情で、無言の内に家事をする彼女は…と、思わず考えた。
森さんは、多分他には人を殺していないのだろうとも思う。
彼自身のその後、そして彼女のこれまでと新たな葛藤を考えずにはいられなかった。
戦闘に参加した兵士のその後の人生は、戦時中の体験と本人の考え方で、大きく違うだろう。自分なりの折り合いを、それぞれつけていくより他はない。
そういう人がいるとは、知っていたとはいえ、あらたに突き付けられて私自身、35年も前の(この場合)、しかも自由意志ではなかった自分の行為を悔いていた人のことも、掘り下げて考えなければならないと、また新たな宿題を背負った思いがした。
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