2016年10月30日05時32分掲載
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文化
家族の肖像 フランス
パリに飛行機で飛んでいた時、偶然、隣に座った人が〜夫婦でパリに団体旅行に出かけるそうですが〜スチュワーデスと僕とのやり取りを見て僕が旅慣れている人と思ったらしく次のように尋ねました。
男 「私は妻と今回初めてパリに行くのですが、どこか見ておくべきものとか、お勧めとかありますか?」
僕 「パリには3日もいると目ぼしい観光スポットは大体回れるものです。ルーブル美術館とか、凱旋門とか。そういう観光を軽んじる必要はないと思うのですが、できれば土地の人と誰か一人でも友達になるといいのではないでしょうか。たとえばパン屋の主でもよいのです。フランス語がボンジュールしか話せなくてもよいのです。絵葉書を1年に1度でも送っていれば年月を重ねるにつれて思い出は宝物になり、数日間の旅を日本に帰ったあとも続けて何年も楽しむことができるのです」
その人とはシャルル・ドゴール空港で別れたのでその後はどうされたのか不明です。しかし、自分にしては中々よいことを言ったんじゃないか、と思いました。買い物も食事も楽しいですが、旅で一番楽しいのは土地の人と知り合って、いろいろ話をすることだと思います。というのも、それはガイドブックには出ていない自分だけの「旅の物語」だから。ということで、今回、そんな風に出会った一人の人に家族の思い出を話していただきました。パリの北の郊外に住むレジャーヌ・ボワイエ(Rejane Boyer)さんです。
(以下、インタビュー)
1e photo : mon grand pere, sa femme Rejane et mon pere, photo prise en 1932. Rejane, ma grand mere est decedee en 1933.Mon pere m'a donne son nom a ma naissance
最初の写真は私(レジャーヌ・ボワイエ)の祖父と祖母のレジャーヌ、そして私の父の写真です。1932年に撮影されたものです。祖母は翌年の1933年に亡くなってしまいました。父は私に祖母と同じ名前をつけたわけです。
Mon grand-pere s'est remarie, a ete fait prisonnier en Allemagne,de octobre 1940 jusqu' en 1943. Il a ete a Ravensbruck, en Autriche ensuite.
祖父はのちに再婚しました。その後、第二次大戦が始まり、ドイツ軍の捕虜になっていました。1940年10月から1943年まででした。ラーベンスブリュックの捕虜収容所に入れられ、次にオーストリアの収容所へ移送されました。
De retour a la fin de la guerre il a repris son travail de graveur sur pierre. Il travaillait soit dans son atelier sur les plaques de marbre , soit dans les cimetieres, directement sur les tombes. Il y gravait le nom et prenom de la personne defunte ainsi que ses dates de naissance et deces.
戦争が終わって祖父は帰国し、再び石工の仕事を始めました。工房で作業をするときは大理石の石板に文字を刻みました。墓地で作業をすることもありました。その場合は直接、墓石に文字を刻みます。刻むのは亡くなった人の姓名と誕生した年月日と亡くなった年月日です。
La maison etait a Saint Gratien dans le Val d'Oise a 20 minutes en train de Paris (banlieue nord) Je n'ai pas de photo de la grande maison ou nous vivions a 2 familles mais je te joins celle du jardin (qui me paraissait tres grand)! J'y ai vecu jusqu'en 1965. Nous vivions dans 2 pieces a 4 (mon pere, ma mere mon frere et moi). Il n'y avait pas de WC ni salle de bain! Pas de WC. ..Nous allions aux toilettes au fond du jardin!!
祖父の家はヴァル=ドワーズ県のサン・グラティエンにありました。パリの北の郊外地で、電車でパリから20分でした。家の写真は持っていません。祖父母と私の両親の2家族がその家で暮らしていました。ただ、庭の写真は残っています。子供だった頃はこの庭も広大に思えたものでした。この家には1965年まで暮らしました。私の家族の部屋は2部屋ありました。両親に1部屋、私と兄に1部屋です。トイレも風呂もありませんでした。トイレは庭の奥にあり、いつも庭をつっきっていかなくてはなりませんでした!
C'etait une personne tres gaie. Il aimait chanter. Il avait appris la musique seul.il jouait du piano, du bandjo et de l'armonica. Il chantait du Bruant.
祖父はとても陽気な性格で、歌を歌うのが大好きだったんです。独学で音楽を学び、ピアノを弾いたり、バンジョーを奏でたり、ハーモニカを吹いたりしていました。歌はアリスティード・ブリュアンの歌をよく歌ったものです。
Q Pourriez- vous ecrire de deux ou trois chansons que votre grand pere a chante ( Bruant) ?
A Oui je me souviens tres bien de mon grand-pere. J'ai meme un enregistrement de sa voix ou il raconte des blagues de Pierre Dac. Bruant etait un poete de Montmartre ou il chantait au cabaret de Chat Noir.
Il chantait : A la Bastille, Nini peau de chien.....
Q あなたの祖父が歌ったブリュアンの歌を2〜3教えていただけますか?
A 祖父のことはよく覚えています。声の録音もありますよ。
ピエール・ダックのジョークを話した時のものです。
ブリュアンはモンマルトルの詩人で、「黒猫」という名前のキャバレーで歌を歌っていました。祖父が歌ったブリュアンの持ち歌には「Nini Peau d'Chien」という歌があり、祖父も「バスティーユではみんな犬の皮の(娼婦)二二が好きだ・・・」などと歌っていました。
Q Il a dit quoi sur la guerre ?
A Sur la guerre il ne se plaignait jamais de son sort. Il appelait les allemands : soit les boches soit les Schleus. Par contre il a permis a ma tante d'avoir une correspondante allemande. Il n'etait pas rancunier aupres du peuple allemand, contre les nazis oui.
Q あなたの祖父は戦争については何か語っていましたか?
A 戦争については決して不平を言ったことはありませんでした。祖父はドイツ人のことをボッシュ(ドイツ人の蔑称)とか、シュリュー(ドイツ人の蔑称)と呼んでいたものです。しかし、娘(私の叔母)にはドイツ人との文通を許可していましたから、祖父にとって恨みがあったのはナチであって、一般のドイツ人ではなかったのだと思います。
Q Pourriez-vous ecrire quelque choses votre grand pere a dit a vous ? Concretement ?
A Non je ne me rappelle pas de paroles exactes pour moi. Ce dont je me rappelle c'est qu'il etait toujours la quand j'avais besoin. Par exemple il m'a depose Gare du Nord pour que je prenne un train de nuit pour le Sud. J'avais 18 ans. Il etait inquiet. Il est alle voir le controleur du train pour qu'il fasse attention a moi!!
Q あなたの祖父の言葉を具体的に何か覚えていますか?
A いいえ、正確に思い出すことはできません。ただ、言えるのは私が必要な時にいつも祖父が近くにいてくれた、ということです。たとえば夜行列車で南仏に初めて旅行した時、パリ北駅まで送ってくれました。私は18歳でした。祖父はその時、もの静かでした。祖父は車掌に会いに行き、私に注意を払ってくれるように頼んでくれたんです。
Pendant ce temps de 1955 a 1965, j'ai vecu une enfance heureuse dans la nature de ce grand jardin.
Dans l’autre maison il y avait mon grand pere sa seconde femme et ma tante, que j'aime beaucoup. Elle aussi ma appris plein de choses ; jardiner, lire, aimer sortir au theatre, nager ....etc c'est une femme libre et tres entreprenante.
1955年から1965年まで、私はこの庭の自然の中で幸せな子供時代を過ごすことができました。65年に祖父はこの家を移って別の家で暮らし始めてから、祖父は後妻と娘(私の叔母)との3人で暮らしていました。叔母はいろんなことを私に教えてくれたものです。庭仕事、読書、劇場に観劇に行くこと、水泳・・・などなどです。叔母は自由人で、行動的でした。
Q Et maintenant ,la maison?
A La maison a ete demolie en 1970 pour construire d'horribles immeubles. .
Q 最初の家は今は?
A 1970年に解体されてしまいました。
醜悪な集合住宅を建てるためですよ。
Q Quand votre grand-pere est mort ?
A Mon grand-pere est mort 31 aout 1990
Q あなたの祖父が亡くなったのはいつでしたか?
A 1990年8月31日でした。
聞き手
村上良太
Ryota Murakami
■家族の肖像 フランス その5 夫はこう考えた・・・ Family portrait in France #5 Marcel Boyer
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■家族の肖像 フランス その4 社会主義者の娘シャルロット Family portrait in France #4 Daughter of socialists, Charlotte
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■家族の肖像 フランス その3 Family portrait in France #3 結婚と町での暮らし
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■家族の肖像 フランス その2 Family portrait in France #2 民衆の歴史を振り返る
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