2016年11月13日03時51分掲載
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コラム
とほほ 対訳戦記・・・
対訳というものに挑戦しています。日刊ベリタで過去に対訳した言語は英語とフランス語ですが、対訳を載せる、ということはつまり、翻訳の間違いをしたら丸わかりになってしまいますから、最初はちょっと勇気がいりました。でも、それを押し切って対訳を始めた理由は寄稿してくれたり、インタビューに答えてくださったりした外国人の方にとって基本的には対訳の方がよいのではなかろうか、ということでした。せっかく時間と労力を費やして文章を書いたり、質問に答えたりしても日本一国にしか読者がいないとしたら、きっとインセンティブは制約されるんじゃないか、という気がします。
実際、翻訳して訳文だけを掲載していた頃は「私は日本語が読めないですからね〜」と言われて悔しい思いをしたことが何度かありました。それに外国人にとっては自分の言葉が適切に翻訳されたかどうかも気になるでしょう。もし対訳であれば、勝手に意味を大きく書き換えたりしていた場合は二つの言語を理解する読者にわかってしまいますから、ある程度の安心感も出るのだと思います。
しかし、最近の僕にとって対訳をする動機の一番大きなものは日本語と外国語を並べることによって双方の言語の読者が出会うことができる場を作ることができる、ということです。インターネットが発展してソーシャルメディアが発展しても、日本語という言語が壁になって、多くの場合、日本人の言論空間と外国人の言論空間とが分離されている気がします。外国語の得意な人は外国人の言語空間に個的に入っていくことが普通のように思います。一般に日本人と外国人がともに出会える場はあまり多くないと思います。人によってはフェイスブックのアカウントを複数保有して、日本人とのコミュニケーションの場合と外国人とのコミュニケーションの場合と使い分けているケースもあると思います。
そうした内と外を使い分ける、というのは長崎の出島のようなもので、一部の通訳だけが外国人とのコミュニケーションを仕切って、残りの人々は通訳と役人が許可した限られたものだけをいただく、というような構造です。そこで日本国内における序列が生まれてしまうような気がします。そのことがインターネットが本来目指しているフラットな関係、人と人が平等に出会うことができる、という理想から大きく隔たっているように思えるのです。実を言うと日本のマスメディアのあり方も基本的には長崎の出島と同じだと思います。何を日本に持ち込んでよいかどうか判断する時に、読者の利益よりも、社会秩序の安定とか、政権の安泰といった配慮が優先されていると思います。そして、本来、そうしたマスメディアにはできない革新的なコミュニケーションを作り出せるはずのインターネットにおいても壁は大きく立ちふさがっているように思えます。だからこそ、対訳は過渡期にふさわしい試行錯誤ではないかと思います。
でも実を言えば日刊ベリタの言語フォーマットが多言語に未だ対応できていなくて、英語以外の言語の特殊な記号が文中にあると、文字化けして判読が難しくなってしまいます。そういうわけで、フランス語のアクセント記号がついた特有の文字はすべて翻訳の後に手作業で1つ1つ英語の文字に置き換えていく作業をしなくてはなりません。これは魚の小骨を1つ1つ抜いていくような面倒くさい作業です。そして作業の後に出てくるフランス語は本当のフランス語ではなくて、ちょっと変なフランス語です。苦労して変な文字に「直していく」というのが、僕にとって「とほほ」感が満載なわけです。でも、そのおかげでフランス語の特殊記号の勉強には打ってつけでもあります。
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