2017年02月20日10時52分掲載
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コラム
画家とグローバリゼーション
グローバル資本主義のもと、先進工業国の様々なメーカーは工場を労賃の安い新興国や発展途上国に移してきた。日本でもフランスでもアメリカでも工場はメキシコや中国や東欧やアフリカ諸国に移転されていく、という大きな流れが出来てきた。では、この流れは絵画という「商品」を描いている画家の世界ではどうなんだろうか。
少なくとも自動車産業や家電産業や服飾産業などに比べると、そのような大きな流れはないように見える。むしろ、今でもニューヨークやパリと言った先進国の代表的な都市に芸術家の卵たちは目を向けているように思えるのだ。
とはいえ、たとえばパリでも画家たちの暮らしは一部の巨匠を除くと楽ではなく、その住まいも市内よりは家賃の安いオーベルヴィリエなどの郊外に移動しつつある。ここまで不況が続き、労働者の収入もダウンしてくると、芸術の良さを理解する人々でも簡単に作品を買うことができないだろう。勢い、外国の市場を求める・・・という傾向はあると思う。パリの画家は東京やソウル、上海などの富裕層や芸術愛好家に作品を販売するルートがあれば・・・と思うだろうし、東京の画家にとっても同様だろう。とはいえ、パリと東京の画家同士の生産コストまでは未だシビアな計算の対象にはなっていないようにも感じられる。
それでも、もし将来インターネットで作品が売買される時代となれば世界のどこで作品を描いても、配送さえ確実ならよい、ということにもなりえる。それならば同じ価格で絵画が売れるのであればできるだけ、生活コストが安い都市に画家が移動する、ということはないのだろうか。
そうしたことを考えた時、簡単に画家が国境を越えて移動しないのは都市にはその総合的な魅力〜歴史や建物、人々のつながり〜 というものがあり、そこで得られるものが単純に家賃や生活費と相殺されるようなものではなく、もっと大きな何かなのかもしれない、ということである。それに生活費が安いからと言って異国の地で暮らし始めた時に、その地で描けるものは東京やパリで描けるものとは違ってくる可能性も高い。もちろん、そこで新しい刺激を受けたり、心の安らぎを得たりできるかもしれないけれど、逆に刺激を失ってしまうかもしれない。それに外食産業にとってお客さんとの触れ合いが大切なように画家にとってもそれを必要とする(潜在的な)お客さんとの触れ合いも必要だろう。絵画作品と言っても製造業ではなく、サービス産業に近い分野なのだろう。
芸術の場合は工場生産物と違って生産のための経費というものがわかりづらい。むしろ絵筆一本の場合は〜画材もただではないにしても〜マテリアルな経費よりも作品を仕上げるまでのインスピレーションや手作業に要する時間の方が大きな意味を持つだろう。要するにどこででも描く、という作業自体は変わらない。ただ、そのテーマをどうつかむか、であり、そのテーマがどこで得られるか、ということでもあると思う。同じ設計図から画一的に機械を組み立てるモノ作りとは違って、色彩や情感などが作品の価値を左右し、それらはその時々、その場所でしか作れない一期一会的なものである。
インターネット時代になって世界中の人々が同じ事件を同じ記事で読んで知る、という流れが激しい勢いで普及している。そうなると、世界中でどこでも問題意識を共有する時代が来ている。ただ、それを世界の各地でどう画布に表現するか、その方法は一通りではない。画家が生活している場所に立ってみると、同じ問題でも別の画家が暮らしている別の都市とは異なるビジョンもあるのではないか、と思う。同じ事件でもそのニュースを受け取る都市によって見方は異なり、南北関係や国の政治システムや歴史などが左右する。だから、グローバル時代の芸術産業ではそのようにして、世界各地の視点や感覚の違いがぶつかりあって新たな刺激を生み出し、それらの作品の売買によってそれぞれの地元に異なるビジョンをフィードバックできるといいのだ、と思う。そしてまた、それぞれの作品がそれらが描かれた各地の都市にも新たな味わいを与えていければよいと思うのだ。
村上良太
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