2017年02月24日10時54分掲載
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コラム
書店が町から消えて
私の住む町から書店が一軒もなくなって何年になるだろう。気がつくと隣の駅前からも書店が消え去った。新刊書店だけじゃなくて、古書店も、レコード店も、レンタルビデオ屋もなくなった。今あるのはチェーンの食べ物屋とスーパーマーケット、理髪店、酒屋、スポーツジム、歯科医などである。文化的なソフトを扱う店がなくなった、ということはそうしたものに庶民がお金をかけられなくなっていることを意味するのだろう。そのことと、インターネットの興隆やスマートフォンの普及は符合すると思う。一人一人が使う通信費代がもしなかったとしたら、本やレコードを買っていた金額にほぼなるのではなかろうか。その一方、書店や古書店やレンタルビデオ店などは急行が止まる鉄道の分岐点の駅に逆に集中している。
書店自体がなくなってしまった中で、書店はこうあるべきだとか言っても実に空しい。書店主たちも試行錯誤してきたに違いないのだから。それでも1つだけいつも思っていたことがあったのだ。それは書店の本棚に当代の人気作家、流行作家の占める割合が高く、古典の割合が年々低下し続けていたことである。古典を探そうと思ったら、都心の大きな書店に行かないと手に入らない、町の小さな店にはほとんどない、ということが長年続いたことだった。
そのことは売上げとどう関わって来るか。古典よりも今売れ筋の人気作家を置いた方が収入が上がる、と短期的には思っても不思議はない。しかし、今の瞬間風速の人気作家というものはある意味で何年かするとトレンドが変わって沈んでしまっていることもある。だからその方面で一時期本が売れていたとしても何年かすると、そこで頭打ちになりかねない。しかし、古典は何百年、時には何千年と読み継がれてきた本である。そればかりではなく、その本を樹の幹だと考えると、そこから様々な枝葉が派生して本の歴史を作っているのである。つまり、本を1冊読むと、さらに3冊、あるいは10冊読みたくなるような樹状の体系を作っているのが古典である。だから、古典の良さを理解することができた読者はそこから10冊、20冊と本を読み続ける可能性が高い。そして、その足取りはいつかぱたっと消えるような脆弱な構造にはないと思う。
しかし、古典の良さを理解してもらい、古典を買ってもらうのは町の1つの書店にはほとんど不可能な努力だと言えよう。フランスでいろいろな文学の夕べなどを催してきた良質の書店ですら次々と消えつつあるのである。だから、古典の良さを理解してもらうためには学校でその良さを教えるしかないのである。そして学校と書店とのいい協力関係が欠かせないと思うのである。さらに新聞も新刊書ばかりでなく、古典の書評や解説に一定の割合を割くことが必要なのではないだろうか。進化の先の枝葉ばかりでは先細りになりかねないと思うからだ。しかもその進化というものも、時には進化の袋小路に入っている可能性もあるのである。
古典が読み継がれる理由は単に過去に書かれた立派な本というだけでなく、時代時代に応じて様々な読まれ方ができる奥行きを持っているということである。だから古典を今の時代にどう読めるか、ということは極めて現代的な課題だと思うのだ。
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