2017年02月27日23時52分掲載  無料記事
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映画「太陽の蓋」と「シン・ゴジラ」が描く日本 木村結 

  2016年7月に封切られた映画「太陽の蓋」に、私は1年ほど前から関わってきた。福島原発事故関連では、私も関わった「日本と原発」を始め数多くのドキュメンタリー映画が作られているのに、劇映画を作る人はいないのか、と残念に思っていたところだったから話をいただいた時は二つ返事で引き受けた。毎月制作会議に参加し、上がってくる脚本へのダメ出しを行った。一般の人に観てもらいたいという思いが強いためか、脚本はどうしても中立な立場を取ろうとしていた。朝日新聞の「吉田調書報道取り消し事件」でも明らかになった「イチエフからの撤退問題」そして安倍総理がデマを流した「官邸からの海水注入中止命令事件」が曖昧になる。私たちは常に第一次資料にこだわり、真実は何かを探り、劇映画で真実を語る壁を感じながら仕事を進めた。 
 
  その点で「この映画は事実に基づくフィクションである」ことを観客に冒頭断って始まる。東京電力は東日電力となり、班目原子力安全委員長も別名で登場する。そして官邸にいて海水注入の中止を命令した東電の武黒フェローも。本人の了解が得られた人だけが実名登場となっている。このようなことは日本映画では前代未聞らしく、この点を評価する劇評も散見される。現在も当時の民主党政権を批判する人が多い中、実名の民主党の政治家役を引き受けてくれる俳優を探すのは難航を極めた。引き受けてくれる俳優がいなければ映画はスタートできない。この期間は祈るように待っている日々が続いた。 
 
 この映画は、群像劇である。福島原発の作業員、原発から10キロ圏内で暮らす作業員の家族、官邸、東京電力、官邸記者クラブ、東京八王子に暮らす記者の家族。多くの人々が登場し、その人びとの恐怖、怒り、不安、苦悩を丁寧に描き出す。時間も2011年3.11から3.15への軸と2011年から2015年へと移動する軸がある。その時間軸が奇妙に交差し、東電から小出しにされたことで、頭の中でバラバラに点在する原発事故の断片や自分自身の記憶を整理するのに役立っている。特に新聞社では書きたいことを書かせてもらえないと退社しながら、フリーの立場でもペンを持つことができない元記者が狂言回しとして、観客にト書きを読むように教えてくれる。これが次に展開する複雑な原発の構造や事故の難解さを理解する予備知識を与えてくれるのに多いに役立っている。更に政治部の記者でありながら原発事故を執拗に追っていく新聞記者が2012年になってから福山哲郎氏にインタビューする中で、当時「官邸には必要な情報が全く上がってこなかった」「原子炉を冷やすことに精一杯だったのに、海水注入を止める訳がない」「原発から撤退すれば250Km圏内は壊滅。運良く助かっただけ」「原発は収束したのではなく小康状態なだけ」ということが明らかとなり、原発事故を忘れかけている観客に警告を発する役割も担っている。 
 
 「太陽の蓋」で官邸が描かれたのと同様、「シン・ゴジラ」でも官邸が描かれ重要な要素だったためか、ネット上では両方観るべきだと発言する人が少なからずいた。私は息子の影響でゴジラ映画をほぼ全作観ており、今作は山手線や新幹線に爆薬を積んで攻撃するなど意外性もあり楽しめた。しかし、「太陽の蓋」との比較となるとシビアに比べなければならないので、主に官邸の描き方と放射能の扱い方について述べたい。もちろんゴジラは虚構であり全て架空の話であることは承知の上。真面目に論じるとTwitterなどでは「虚構ですから」「何熱くなっているの?」などと横槍を入れてくる方が多いので念のため言い添えておく。 
 
  ゴジラが出現した時の政権は、首相以下十数名がヘリコプターで逃げようとしてゴジラの攻撃であっけなく死んでしまう。その後擁立された首相は、みんなが嫌がるので貧乏くじを引かされただけで、問題を先送りする優柔不断さ。しかし、「私が最高責任者だ!」「私が決める!」と即断するどなたかと異なり、結果的にはとても良い首相であったことが分かってくる。国連軍、つまり米国は、核兵器でゴジラもろとも日本を爆破しようとするが、首相は方々に根回しして血液凝固剤の量産が完成するまでの24時間の猶予を確保し日本全滅の危機を回避する。 
 
  ゴジラが東京を破壊し始めると国会前には群衆が集まり「ゴジラを殺せ!」とシュプレヒコールを繰り返す。安保関連法案に反対し「平和を守れ!」「9条守れ!」と叫んだ昨年夏の国会前集会を思い出させる映像に違和感を感じた。このシーンでは「ゴジラを守れ!」のコールも聞こえるとの指摘もあり、それが正しいようだ。しかし、同じ群衆から全く相反するコールが出されるのはありえない想定で、そうだとするならこの群衆は敵対抗争し、警察が介入しているはず。きっとこの監督や脚本家はデモに直接参加したことがないのだろう。 
 
  「太陽の蓋」が原発事故とイチエフから放出される放射能の恐怖を描いていたのに対して「シン・ゴジラ」はゴジラによる街の破壊と吐き出される放射能の恐怖を描く。しかし、この放射能は半減期が20日間というあまりのご都合主義。聞いた途端一気に現実に引き戻されてしまった。更に言えば血液凝固剤を注入する方法が、ゴジラの口からというのにもがっかり。皮膚が固くて注入ができないという判断なのだろうが、その点については生物学者と自衛隊との議論が欲しかった。また、成長過程のゴジラが上陸する際に川を遡上するのだが、そのシーンで船が数多く陸や橋に打ち上げられる。これは3.11の津波のシーンだという。私には「それが何?」である。この監督の作品「新世紀エヴァンゲリオン」は哲学的だ、とか言われてもてはやされているようだが、セリフまわしに意味深な言葉を多用しているだけに過ぎない。この船が打ち上げられるシーンはCGで作成されているが、予算がないためかあまりにもレベルが低い。ハリウッド映画を見慣れた目には興ざめである。シーンを短くするとか観客が感情移入してからCGを使うなどの工夫をして欲しかった。 
 
  同じく低予算で作った劇映画ではあるが、「太陽の蓋」は原発の実景を見せず、イチエフの内部や操作室も描かずに、スピード感と一人一人の個性を際立たせることで、混乱を表現するのに成功している。ミッキー吉野さんの音楽の力も大きく貢献している。また製作の橘民義さんの心意気にも触れておきたい。日本初、未曾有の事故でありながら全体像が国民に明らかにされていない福島原発事故。事故究明どころか、溶けた燃料棒がどこにあるのかすらわかっていない状況であるのに、まるで事故などなかったかのように続々と原発を再稼動させる安倍政権に怒り、制作費を一人で負担したのだ。忙しい身でありながら、連日日本映画を見続け研究し脚本家や監督と渡り合っていた姿は気迫に満ちていた。 
 
  また最後のシーンで、北村有起哉扮する鍋島記者が、「僕たちは頑張った!って言い訳してくださいよ」と坂下秘書官に叫ぶ姿は、お行儀の良い民主党への叫びのように聞こえた。 
 
 ここで触れておきたいのは、東電のテレビ会議録画の存在である。原発からの作業員の撤退を止めるため東電に乗り込んだ菅直人首相が呆然としたもの、官邸には入ってこない原発現場の情報が東電にはリアルタイムで届いていた事実。この事故対策のテレビ録画は東電株主代表訴訟が証拠保全を申し立てたことで108枚のDVDに収められ東京地裁の地下倉庫に保管されている。証拠保全請求を知った朝日新聞の調査報道の記者たちによって「公開せよ」キャンペーンがされ、最終的には枝野経産大臣の行政指導で東電は公開を余儀なくされたが、編集とカットを施した一部のみの「名ばかり公開」だった。もちろん、東電が消去しないように地裁に証拠保全されたDVDは編集もカットもされていないもの。この完全版を公開することが事故の全貌を知る上では欠かせないことであり、これは日本だけでなく原発事故の恐怖を共有する世界中の人々の財産であることを再確認しておきたい。 
 
  映画は連日4回上映され、満員であったにもかかわらず、理由も語られず7月末で急に上映打ち切りとなった。各地での上映は公式ホームページを見ていただきたいが、自主上映も受け付けている。100人未満であれば1万円と言う破格な値段で上映が可能である。一人でも多くの人に事故の真実を届けたい。 
 
(季刊「現代の理論」からの転載です) 
 
木村結 
東電株主代表訴訟事務局長 


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