2017年04月19日18時24分掲載  無料記事
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映画『娘よ』 「もの」として扱われることに抗う女性   笠原眞弓

 画面の真ん中に1本の黒い柱が立っている。それを挟んでこの家の主の男が座り、その従属品である女がかまどの前で立ち働いて食事を男に供する。ごくありふれた日常だが、柱が気になる。画然と男の社会と女の社会を分けている。 
 
 娘ザイナブの「結婚する相手はこうして決める……」という無邪気なザイナブの言葉に、母アララッキはある決意をする。 
部屋の外に楽しそうなザイナブとアララッキの声が漏れている。婚礼衣装を着ている。外ではイライラした男性たちがいる。しびれを切らした父親が開かないドアを蹴破ると……。 
 
 この婚礼は、部族間の長年の争いを収めるために、10歳の娘を相手の求めに応じて高齢の部族長に何番目かの妻として差しだすためのものだった。 
 互いに面子をつぶされた二組の部族によって、追跡された二人は、危ういところをトラックに強引に乗り込み、逃げる。人のいいトラックの運転手ソハイルは行きがかり上、危ない橋を渡ることにする。 
 
 パキスタンで10年前に実際に起き事件をヒントにした、パキスタン女性、アフィア・ナサニエルの原作・監督による第1作目の映画である。そしてそれは、全女性へのまた、理不尽に虐げられている人々へのエールでもある。 
 
 パキスタンでは、男性がいないと生きていけない世界だという。アララッキも自分が15歳の時に、同じように何番目かの妻として嫁に来たことから、まだ結婚がなにかも分からない子どもに同じ経験をさせたくないと、逃げ出したのである。 
 
 昔の話ではなく、現在のことである。携帯で連絡を取り合う現代に部族間闘争があり、女性を「もの」のようにやり取りしている。そうして男たちの争いごとから逃げたにも拘わらず、やはり「女性として」という因習にとらわれざるを得ないアララッキであり、ソハイルなのである。 
 
 それは、異国のパキスタンのことではなく、わが日本のことでもあり、すべての国のことでもあると思わずにはいられない。確かに日本でも、歴史をひも解くまでもなく、延々と現代に続く閨閥はあり、道具としての「女性」はいつの時代にもいた。それは、世界中に今も残っている。だから、映画の中のアララッキに深く心を寄せることができるのだと思う。 
 彼女たちは、追っ手からうまく逃げおおせたのだろうか。男のいない家族としてパキスタンで平穏に生きられるのだろうか。それも気になるエンディングであった。 
 
監督:アフィア・ナサニエル 
4/28まで岩波ホール。その後名古屋、静岡、大阪など順次全国展開。 
公式ホームページ http://www.musumeyo.com/intro.html 


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