2017年04月28日10時13分掲載
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コラム
今村復興大臣の失言の裏に潜むもの 〜福島、東北、沖縄 そして自民党改憲案〜
今村雅弘復興大臣がたび重なる失言で辞職することになった。その決め手となったのが東日本大震災を評した次のような言葉だったとされる。
今村「これは、まだ東北で、あっちの方だったからよかった。もっと首都圏に近かったりすると、莫大な甚大な被害があったと思う。」
この言葉は今村大臣の個人の思想を表している、というだけだろうか。東北で亡くなる人も、首都圏で亡くなる人も命としては等しいはずだが、ここで今村大臣が言っているのは被害をめぐる数字の大小であり、被災地が国家機能の中枢かどうか、ということだろう。
東北がつぶれても、首都圏がつぶれていなければ国家は維持できる、という発想がそこにはあるのではないか、と思う。東北で亡くなった人々、その一人一人の個的な人生を考えれば死によって生存が断ち切られることは一人一人の人生の終焉を意味するのだが、国家という存続する制度を考えれば個人が死んでも国家が生き残ることが優先される、という考えだろう。
このことは自民党改憲案の価値観と通底しているように思えてならない。とくに象徴的に見えるのが自民党の憲法13条の改正案である。
現行憲法「すべて国民は、個人として尊重される。・・」
↓
改正案「すべて国民は、人として尊重される。・・」
すでに日刊ベリタで触れたことだが、今村復興大臣の言葉を聞いて、もう一度この問題を記しておきたいと思う。憲法13条で保障された個人の尊厳は人権の根拠である。それを換骨奪胎するのが自民党改憲案だ。個人としては尊重されず、人としてなら尊重される、ということはどういう変化なのか。
憲法学者の芦部信喜氏が書き下ろしたテキストである「憲法」(岩波書店)の「人間の尊厳性 人権の根拠」という見出しのくだりにこう記されている。
「基本的人権とは、人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、その尊厳性を維持するため、それに必要な一定の権利が人間に固有するものであることを前提として認め、そのように憲法以前に成立していると考えられる権利を憲法が実定的な法的権利として確認したもの、と言うことができる。したがって、人権を承認する根拠に造物主や自然法を持ち出す必要はなく、国際人権規約前文に述べられているように、『人間の固有の尊厳に由来する』と考えれば足りる。この人間尊厳の原理は『個人主義』とも言われ、日本国憲法は、この思想を『すべて国民は、個人として尊重される』(13条)という原理によって宣明している。」
生まれながらに人間が持っている「人間尊厳の原理」こそ「個人主義」であり、それは「すべて国民は、個人として尊重される」という言葉に集約される。ところが自民党は個人としては尊重されず、人としてなら尊重されると改変することにより、個人は国家に従属するものとして位置づけられているのである。
それは国家が必要とするときは国民に潔い死を求めるものではないだろうか。未だ改憲前でありながら、今村復興大臣の言葉にはその国家主義的な発想が典型的に見られるのである。これは東北に限らず、日本各地の原発を有する自治体も、米軍の基地を保有する沖縄も、すべてつながることではなかろうか。国家のためには国民はいつでもどこでも死の危険を当然に受け入れよ、ということである。だが、実際にはそのリスクは首都圏の住民ではなく、沖縄や東北と言った地方の住人が負担させられている。国民個々人の命や人権よりも国家の維持が大切なのだと考えているのであろうから、そういう発想が言葉の端々に出てしまう。
■自民党憲法改正案「第十三条 全て国民は、個人として尊重される」(現行) ⇒「第十三条 全て国民は、人として尊重される」(改正案) 個人と人の違いとは?
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