2017年09月05日19時08分掲載  無料記事
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反戦・平和

「慰安婦」解決を困難にした2015年12月の日韓外相合意の修正へ 〜 文在寅新政権に根本解決に向けた外交交渉を期待

「慰安婦」問題の立法解決を求める会NEWS No.61 
(発行日:2017年7月1日) 
 
【被害者の声と人権を尊重し、日本の誠実な謝罪実現に導く指導力を】 
 2015午12月の合意が、被告者の同意なく拙速に進められた点は、すでに韓国では広く指摘されてきた事実だ。政権が変わったのだから、前政権の方針を大きく変えることはあり得る。問題は、その進め方と修正すべき内容である。 
 韓国側が、2015年12月の合意が不適切であったとなぜ考えたのか。事情説明と新提案は、外交チャンネルを通してだけでなく、日本国民に対しても行ってほしい。 
 
 修正・改善すべきホイントは、日本側のこの問題に対する反省と謝罪が本物と受け取られていない点だ。 
 10億円という金額が先行し、性格のあいまいな資金の配布が先行してしまった。2015年の年末に突然発表された内容は、手切れ金を、ポンと出して、あとは終わりにしてくれ…というふうにも読めた。安倍総理の言動にも、もうひとつ誠実さが感じられないと、韓国国民の多くが感じ取っている。その点の疑念を払しょくする必要があるが、これは韓国政府にできることではなく、安倍総理自身にしかできないことである。 
 日本側にも、10億円を支払ってもなお、問題は解決に至らなかった、問題はお金ではなかった…という結果を真摯に受け止めるべきである。ただし、今回の合意が見直しを求められるに至った原因は、韓回の前政権の判断ミスであったことは明らかだ。 
 そして現状では、少女像などの移転が難しいことも率直に新大統領が説明すべきだ。そもそも日本側が、2011年12月の少女像設置前に真摯な解決策を準備していれば、このような事態には至らなかった。責任は安倍現総理だけでなく、それ以前の野田首相や民主党政権にもある。 
 
 新大統領は、「慰安婦」問題がうまく進展しないからといって、他のすべての課題を止めるようなことはすべきでない。韓日両国に懸案は多数あり、併行して諸課題の協議を進めるべきである。ツートラックといわず、スリートラックもフォートラックも並行して走るべきだ。これまでの李明博、朴糧恵政権の失敗を繰り返してはならない。 
 来日して、安倍首相と語り合うだけでなく、直接日本の国民にもメディアを通して語りかけ、問題を分かり易く説明してほしい。一方的に主張するだけでは、広範に浸透している「反韓」「嫌韓」感情を鎮めることができない。隣国のトップとは語り合えるというメッセージを是非発信してほしい。 
 そして、次に安倍総理をソウルに招き、対話と交渉を継続してほしい。次は安倍総理が直接韓国国民に話かける番だ。「年2回のシャトル外交の復活」などと、形にこだわる必要もない。問題がいくつもあるのだから、そして何より近い隣国なのだから、頻繁に首脳会談を持てばいい。安倍総理はロシアのプーチン大統領とは年に何度も会っている。 
 対話で物事を解決するのだという、当たり前の付き合い方を大切にしてほしい。2012年の合意が実現していないことに腹を立てて、駐韓大使を長期に引き揚げた日本政府の対応も大人げなかった。そして日韓両政府同士の対話と並行して、被害者との直接対話も何より大切にしてほしい。期待された前の女性大統領が、あれだけ「慰安婦」問題重視を言いながら、結局、一度も被害者と面談しなかったというのは、残念であり、驚きであった。 
 日韓両国の問には、「慰安帰」以外にも、元徴用工、文化財返還、教科書、領土問題などいくつもの紛争の火種が横たわっている。一つに火が付くとすぐに全体に広がりやすいが、冷静・沈着に、ひとつひとつの課題と、両国の専門家や関係者の意見も聞きながら、同時並行的に粘り強く取り組んでいただきたい。(編集部) 
 
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【追悼】本岡昭次先生のご冥福を祈ります 
 
戸塚悦朗(元龍谷大学教授・国際人権法政策研究所事務局長・「慰安婦」問題の立法解決を求める会副会長) 
 
 長い問人権擁護活動の指導者として、頼りにしていました本岡昭次先生が2017年4月10日急逝されたとのニュースをうかがい、衝撃を受けました。3月末には電話でお話しできました。お疲れの様子ではありましたが、この次に三田でお目にかかれることを期待して電話を切りました。埋めがたい喪失感は、表現のしようもありません。 
 
 想い返してみますと、1980年代初め頃、私は第2東京弁護士会の人権擁護委員会の委員(副委員長)として、精神医療による人権侵告の実態についての調査に専念しました。その当時のことです。私は、精神衛生法の欠陥から起こされた重大な人権侵害は、国際人権(自由権)規約違反であるという研究成果を発表し、法改正を提案しました。しかし、弁護士会だけでは政治を動かすことはできませんでした。 
 野党第1党・社会党(社労部会)の本岡昭次先生ほか数名の参議院議員は、被害者の声を聴き、私たち法律家や精神医療従事者と協力して宇都宮病院の人権侵害事件(虐待死、違法拘禁など)の調査に取り組み、1984年3月参議院予算委員会で問題提起しました。 
それまでほとんど注目されなかった精神医療による人権侵害が社会問題として主要メディアに大きく報道され、内外の注目を浴びることになったのです。 
 この問題は、1984年8月国連NGO・国際人権連盟(ILHR)の支援を得るという幸運に恵まれ、国連人権会議でも論議されました。国際法律家委員会(ICJ)など3つの国連NGOによる人権実情調査団の日本派遣が実現し、日本政府への調査団勧告が出されたのです。このような内外の運動の流れは、日本政府を動かし、1987年9月精神衛生法を精神保健法として改正するという成果につながったのです。 
 
 これを契機に、本岡議員などの社会党議員団も国連欧州本部を訪問し、人権小委員会に参加するなどにして国際人権法政策の調査・研究を始めました。これは、超党派の国連人権活動協力議連(初代会長羽田孜衆議院議員=後の首相)の創設など、国会議員が国連人権活動支援のためのリーダーシップをとるまでに発展しました。 
 その後本岡議員は、私たちの要請に応え国際人権法の日本への実効的な導入のために、人権条約、とりわけ個人通報権条約批准運動を精力的に続けました。そのような本岡議員による国会活動と私たち法律家による国連人権活動という内外の国際人権活動は、日本軍「慰安婦」問題への取り組みに発展したのです。 
 
 1990年6月6日の参議院予算委員会で、本岡議員は社会党を代表して質問に立ち、朝鮮人強制連行問題を詳細にただしていくなかで、「強制連行の中に従軍慰安婦という形で連行されたという事実もありますが、その通りですか」と質問したのです。 
 ところが、答弁にたった清水労働省職業安定局長は、「従軍慰安婦なるものにつきましては、古い人の話等も総合して聞きますと、やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、というような状況のようでして、こうした実態について調査し結果を出すことは、率直に申してできかねると思っている」と、民間の業者の問題であり、国は関与していないので、調査はできないと突っぱねたのです。 
 本岡議員は、この事態を明らかにしないで日本と韓国の信頼関係が築けるのか、と海部総理に厳しく迫りました。結局、「政府は早急に報告する」との海部総理の答弁を得て、調査結果を待つことになったのです。 
 この時の国会での質疑を知った韓国女性団体は、「日本政府は嘘をついている。軍隊の関与で行われたことである」と激しい抗議の声をあげました。「慰安婦」にされた金学順さんは、このままでは死んでも死にきれないと、1991年8月に名乗り出ることになり、名誉回復と日本政府の補償を求めて裁判所に提訴することになったのです。 
 そのような流れのなかで、1992年1月には宮沢喜一首相が韓国国会で、「慰安婦」問題について軍の関与を認めて謝罪にしました。 
 本岡議員の厳しい追及を受け、内閣外政審議室は、1993年8月4日に「いわゆる従軍慰安婦問題について」の調査結果を発表し、この調査結果をもとに河野洋平内閣官房長官談話が発表されたのです。 
 河野官房長官は、慰安所の設置は日本軍が直接・間接に関与したこと、慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったこと、慰安所の生活は強制的な状況の下での痛ましいものであったことなどを認め、被害者に謝罪しました。問題解決のための重要な一歩前進でした。 
 
 ところが、日本政府は、国の法的責任を回避するため、財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し、国民の募金による償い金を国に代わって被害者に支給する事業を推進するという民間基金政策を推進しました。 
 本岡議員は、これを真の謝罪とは認めないという被告者の声を支持して、これを基本的な誤りと判断したのです。もはや日本政府が「慰安婦」問題解決の方針を変更しない限り、解決ヘの歩みは、一歩も前進しないのです。被害者が誠意ある謝罪と認めて受け容れる「慰安婦」問題の解決を促進していく新しい法律案を国会で審議し、これを成立させる以外に道はない状況となりました。 
 本岡議員は、議員立法案として、「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を立案し、韓国を含む各国の被害者側から謝罪として歓迎する意向を事前に確認するという誠実な手順を踏みました。そのうえで、民主党(鳩山由紀夫代表)の影の内閣を説得し、野党共同法案として継続的に提出される状況を作り出しました。この法案が成立すれば「慰安婦」問題の解決が促進されることは、間違いなかったのです。「本岡法案」と呼ばれたこの法案が8度にわたり国会に上程されたことは、日本の多数の国会議員が謝罪のために誠実な活動をした事実を歴史に残しました。しかし、この法案は、メディアに注目されず、自公の反対を突破できず、法律として成立しなかったことは、残念でした。 
 
 本岡議員は、金学順さんから直接「本岡さん、あなたは国会議員でしょう。日本の国会議員が問題を解決してくれないから、私たちが意を決して裁判に訴えたのだ」と涙ながらに訴えられました。2004年政界から引退した後も国際人権法政策研究所を創設してこの法案の推進などの努力を継続し、最後まで「慰安婦」問題の国の責任による法的な解決に執念を燃やして闘い続けた本岡議員の原点は、この金学順さんの訴えだったということです。 
 被害者の人権実現のための本岡先生の苦闘に思いを馳せ、ご冥福をお祈りいたします。 
 
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【追悼】「慰安婦」立法解決への岡崎トミ子元参議院議員の献身に感謝 
 
有光健(戦後補償ネットワーク世話人代表・「慰安婦」問題の立法解決を求める会事務局長) 
 
 岡崎トミ子さんがアナウンサーとして活躍していた東北放送を辞めて、衆議院議員(旧宮城1区)に社会党から立候補して初当選したのは、1990年2月だった。 
 上記の本岡昭次参議院議員が参議院予算委員会で初めて「慰安婦」問題について質問し、政府側が「民間業者が軍と共に連れ歩いた」と答弁したのが同年6月。 
 11月には韓国で挺身隊問題対策協議会が結成される。 
 翌1991年には岡崎さんは社会党の女性局長に就任するが、4月には再び本岡議員の質問に、政府は「資料がない」と答弁する。 
 8月に金学順さんが初めて元「慰安婦」だったと名乗り出て、大きな反響を呼ぶ。岡崎さんは社会党女性局長として挺身隊問題対策協議会の尹貞玉や金学順さんらと会い、直接話を聞く。初当選の1期日から「慰安婦」問題に関わることになる。 
 その後、1996年に落選するも、1997年からは参議院議員として活躍される。衆議院議員6年、参議院議員16年勤められたが、環境問題や東チモール支援と並んで最も力を入れられた課題が「慰安婦」問題だった。 
 
 「戦時性的被害者問題解決促進法案」の原案を作成したのも本岡議員だったが、2000年4月に民主党案が提出され、共産、社民党もそれぞれ同趣旨の法案を作成・提出し、2001年3月には、3法案を一本化した共同案を3野党が提出する。 
 この年8月、本岡議員が参議院副議長に就任されたのに伴い、岡崎さんが後を引き継いで、同法案の筆頭提案者として、内閣委員会で趣旨説明を行ったり、記者会見したりすることになる。この法案は、2001年から2008年まで、民主・共産・社民党、そしてのちに国民新党・日本新党・無所属議員も加わって参議院に8回提出された。 
 
 一番活発に動かれたのが、2002年だった。吉川春子参議院議員(共産)の提案で、2月にインドネシアを吉川議員、円より子議員(民主)、田嶋陽子議員(社民)と一緒に訪問し、被害者や弁護士、支援団体、社会省次官らに法案を説明し、意見交換した。 
8月には田嶋議員とフィリピンを訪間して、被告者や上下院議員らに、法案を説明して交流、9月にも田嶋議員と台湾を訪問して、被告者、立法委員(国会議員)、政府関係者に法案を説明し、意見交換した。 
 この年の7月には参議院内閣委員会で法案の趣旨説明を行い、法案についての質疑も行われた。韓国挺身隊問題対策協議会の金允玉常任代表や鳩山由紀夫民主党代表も駆けつけて、傍聴は定員の3倍に達し、約50人が立ったまま傍聴する中、傍聴席に座る在日の被害者宋神道さんの意見を岡崎さんが読み上げた。当時は、自民党議員も大変丁寧に、彼害者への配慮も滲ませながらこの法案への質問を行っていた。近年の猛々しい「慰安婦」問題への反発姿勢とはかなり異なっていたと記憶する。 
 同年12月にも法案審議が行われ、戸塚悦朗神戸大学助教授(当時)、横田洋三中央大学教授が参考人として出席し、賛否の立場からの意見を述べ、質疑が行われた。 
 
 翌2003年2月に韓国を吉川議員、田嶋議員、大脇雅子議員(社民)らと訪問した際に、「事件」は起きた。 
 韓国の国会議員、政府関係者に、法案審議の経過などを報告、「ナヌムの家」を訪問して、被告者らとも交流した後、他の3議員は先に帰国され、岡崎議員一人で日本大使館前の「水曜集会」を訪れて、法案審議の報告を行った。 
 集会参加の予定は、前日にも日本大使館を訪れて高野駐韓大使に通告してあった。集会参加者が掲げていたプラカードに、日の丸に×印を入れたものがあり、その前で岡崎議員が挨拶・報告した写真が、待ち構えていた産経新聞のカメラに撮られ、週刊新潮、週刊文春、FLASHなどにも提供されて、大騒ぎになった。「反日議員」「売国奴」のレッテルを張られて、右側からの攻撃にさらされ、その後の議員活動にも支障をきした。 
 2010年に国家公安委員長・消費者・男女共同参画担当大臣に就任した際も、自民党の稲田朋美衆院議員、西日昌司参院議員らに執拗に追及された。選挙の際も、対立候補陣営から「反日」と非難され続けた。しかし、岡崎さんは、「あの×印を取ってもらうためにこそ、私は活動しているんです」とひるまなかった。 
 
 後日騒動の原因をさぐってみた。挺身隊問題対策協議会の金允玉常任代表が、「日本の国会議員が水曜集会に参加する」との報道向けFaxを産経を含む各社に積極的に送ったことが分かった。なぜ、そのようなことをされたのか?と尋ねると、「じつは韓国の国会議員は一人も水曜集会に参加してくれたことがなかったのです。それで、日本の国会議員が来てくれるということを内外にアピールしたかった。一番知らせたいのは韓国の国会議員に対してだったのです」との答えだった。その気持ちは十分理解できたが、起きた結果はマイナスだった。重すぎるダメージとなったが、岡崎さん本人からは愚痴や後悔を聞いたことがなかった。 
 じつは、これも調べてみると、水曜集会への日本の国会議員の参加は初めてではなく、緒方靖夫参議院議員(共産)も以前参加していた。「日本の国会議員で初」というのも誤報だった。 
 
 その後も、ひるむことなく、岡崎さんは2004年にも、大臣を辞めた後の2011年にも訪韓し、元「慰安婦JだけでなくBC級戦犯遺族や元シベリア抑留者らとも会い、議員交流を重ねてきた。 
 2004年12月には設置されたばかりの強制動員真相究明委員会を石毛えい子衆議院議員とともに訪ねた翌日大統領(青瓦台)を訪ねている。そのときに対応したのが今回大統領に就任した文在寅大統領首席秘書官だった。 
 この時同席させていただいた筆者は、やや踏み込んでこう述べた。「残念ながら日本での裁判は全部棄却され、原告の元慰安婦が敗訴して終わっています。法案も提出し、日本の議員も弁護士も支援者もやれることは全部やってきました。しかし、野党提出法案のため、すぐに成立の見込みはありません。日本政府は野党やNGOのいうことには聞く耳を持ちません。ここは外交的に韓国政府が『慰安婦』問題を取り上げないと動かしようがないと思われます。3日後に控えた小泉首相との首脳会談で一言でも触れるよう首席秘書官からお伝えいただきたい」。 
 文在寅氏は「私も同感です。大統領に必ずお伝えします」と応じてくれたが、3日後、指宿で行われた日韓首脳会談(2004.12.17.)で慮武鉉大統領は、残念ながら「慰安婦」問題には一言も触れなかった。ただ、遺骨の問題については首脳会談で初めて言及し、その後遺骨の調査がすこし進展した。この訪韓の直前には細用官房長官と韓国・フィリピンの元「慰安婦」代表との面談(2004123)を実現する仲介もされた。 
 
 「慰安婦」問題でこれほど各国をまわり汗をかいた議員はおられない。時に一人でも、傷つきながらも。(吉川春子議員はオランダを訪ね、その後議員を辞められた後も韓国を何度も訪問しておられるし、石毛えい子さんも衆議院議員引退後も韓国を訪問するなどして、働きを継続しておられる。) 
 海外に出かけるだけでなく、李美卿議員や韓明淑議員(元国務総理・女性部長官)、台湾の立法委員らを日本に迎え、マイク・ホンダ米下院議員らとも親交を重ねた。アジア女性基金を受け取った韓国の被告者の話も聞き、乞われてその自宅にまで足を延ばしたこともある。元「慰安婦」以外の連合国の元捕虜(POW)、日韓のシベリア抑留者、韓国人BC級戦犯者らとも規しく交わり、信頼を得ておられた。民主党政権発足後の2010年に設立された「未来に向けて戦後補償を考える議員連盟」の初代会長を務め、広く戦後処理・戦後補償全般を視野に入れて活動しておられた。 
 
 岡崎トミ子さん、本岡先生があいついで逝去されたことは、まことに大きな損失で残念だ。お二人のご遺志をついで、改めてとりわけお二人がご尽力された「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」の歴史的な意義を見直したい。10年前と異なり、「安倍1強」と言われる永口田町の政治状況の下で、同法案を成立どころか、提出すらできない状態が続いている。韓国の新政権発足に伴い、2015年12月の日韓外相合意を見直し、今後の「慰安婦」問題のまっとうな解決を考える極めて重要な時期に来ている今、法案のめざした中身を再確認し、何が達成できていない課題なのかを考えることは大切と思われる。 
 他方、13年前に挺身隊問題対策協議会が、「韓国の国会議員は一人も来ない」と嘆いた状況は大きく変わり、その後、日本大使館前の水曜集会には有力議員や韓流スターたちも駆けつけるようになった。 
 慮泰愚大統領から朴槿恵大統領まで、韓国大統領が「慰安婦」被告女性に会うことはなかったが、文在寅大統領は何度も被害者と会い、「ナヌムの家」も訪ねている。紆余曲折はあったが、苦労に苦労を重ねてきたバトンは、日本の議員側から被害国韓国の大統領と議員に引き継がれているといっていいのではないか。 
 被害者も支援者も国際社会も納得できる解決が早くもたらされて、天上の岡崎さんや本岡先生に報告できる日が来ることを期待したい。お二人の献身に深く感謝しつつ。 合掌 
 
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【カンパのお願い】 
 2015年12月28日の日韓合意から2年6ヶ月。 
 韓国新政権の登場で大きく見直しのきざしです。被害者らの闘いはまだ続きます。連帯・応援のお気持ちをお寄せください。会費はいただいておりませんので、カンパをお願いします。送金は下記の郵便振替か銀行振込でお願いします。 
 
郵便振替:00140−7−251859 
銀行口座:三井住友銀行飯田橋支店(普通口座)0848540 
名義は、いずれも「立法解決を求める会」です。 
 
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 発送作業などへの協力者・ボランティアも毎回呼びかけています。ご参加ください。(編集部) 
 
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「慰安婦」問題の立法解決を求める会(共同代表:荒井信一/副代表:戸塚悦朗) 
 
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