2017年09月05日22時04分掲載  無料記事
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社会

警察・軍隊・自警団に虐殺された朝鮮・中国の人たち 二つの追悼式の現場で考えたこと  田中洋一

 東京スカイツリーを見上げる東京都墨田区の一角で今月1日と2日に、関東大震災の混乱に乗じた軍隊や警察、自警団の手で殺された朝鮮人・中国人・社会主義者ら犠牲者を慰霊する二つの追悼式が行われた。震災から94年経つ今も、政府は事件の究明に消極的なうえ、1日の式典で例年読み上げてきた追悼文を小池百合子都知事が取りやめたことに遺族や支援者は「犠牲者の霊は鎮まらない」「この国の排外主義が強まるのではないか」と反発していた。 
 
  墨田区の都立横網公園の一角に追悼碑が立っている。大震災から半世紀経った1973年に、心からの追悼と歴史の誤りを繰り返さない誓いにと建立された。震災発生の1日午前11時58分を挟み、虐殺された朝鮮人追悼の式典が碑の前で行われた。日朝協会東京都連合会などで作る実行委員会が主催した。 
 
  目を引いたのは金順子(キム・スンジャ)さんの鎮魂の舞い。白いチマ・チョゴリをまとった韓国伝統舞踏家の演舞は、94年前の犠牲者に何かを呼びかけているように見えた。後で金さんに尋ねると、「亡くなった方々の魂に一滴の潤いの水を捧げました」。 
  金さんは宮城県生まれの在日韓国人2世で、今は日本国籍を得ている。この追悼式で20年以上も舞い、朝鮮人犠牲者の鎮魂を続けてきた。小池都知事が追悼文を断わったことには、「心外で。悲しい。唯一の慰めは、各地で日本人が(追悼や加害責任追及の)運動を続けて下さっていること」と私に語った。 
  上野に住んでいた母方の祖父の94年前の体験だという。「お茶のみに友人を訪ねると、危険だからと匿われた。中からそっと覗くと、同胞が殺されているのが見えた」。母を通して聞いたそうだ。 
 
  式典の参加者はいつもなら200人前後だが、今年は主催者発表で500人を数え、献花の長い列が続いた。私のように小池知事の言動に反発し、怒りを覚えて参列した人が多かったはずだ。 
 
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  小池知事は何をしたのか。8月25日の記者会見での発言を都のホームページから引用しよう。追悼式に歴代知事は追悼文を送付してきたのに今年は取りやめるのはなぜか、と記者が尋ねた。 
  小池知事 「私は3月に、関東大震災と都内の戦災遭難者慰霊大法要……にも出席し……関東大震災で犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表わした」 
  記者 「『犠牲者全体への追悼の意を込めて』というような理由の説明がありましたけれども、……主催者側からは、一般の犠牲者、震災の犠牲になられた方と……流言などによって虐殺をされた、人の手で殺された犠牲者の方への追悼というのは、意味が違う(と主張)……この反論については、知事、どう考えるか」 
  知事 「いずれにしても不幸な死を遂げられた方に対しての慰霊をする気持ちに変わりない」 
  記者 「民族差別ってものが背景にあるような形で起きた不幸な悲劇について……特別な意味というのは見出されないのか」 
  知事 「民族差別という観点というよりは……さまざまな被害によって亡くなられた方々に対しての慰霊をしていくべきだと思っている」 
 
  さらに、朝鮮人殺害についての認識を問われて小池知事は「さまざまな歴史的な認識があろうかと思っている……」とかわし、自身の歴史認識を明らかにしなかった。これでは、虐殺の史実を否定したと受け止められても仕方あるまい。 
 
  冒頭の追悼式当日の1日も、小池知事は虐殺の有無について記者会見で再び問われ、こう答えた。「いろいろな歴史の書の中で述べられている。さまざまな見方があると捉えている」「歴史家が紐解くものではないだろうか」 
  公人として、政治家として、虐殺について自らの歴史認識を開陳すべきだと私は考えるが、小池知事は自らの見解を伏せた。歴史家うんぬん発言は安倍首相もよく使う手であることに留意したい。 
 
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  今月2日の韓国・朝鮮人犠牲者追悼式は荒川放水路の河川敷であった。市民団体ほうせんかの主催で、参加者は主催者発表で270人。ここには朝鮮人虐殺の歴史が流れる。震災の火炎に追われた避難民が、崩壊を免れた近くの(旧)四ツ木橋に集中した。流言飛語により結成された自警団や兵隊による虐殺が一帯であったという。 
 
  追悼式に先立ち、1983年制作のドキュメンタリー映画「隠された爪跡」(呉充功監督)を地元の八広小学校で観た。映像で目撃者が何人も虐殺を証言している。「兵隊が朝鮮人を連れてきて土手に座らせると、後ろから1発で撃ち貫いた」などと。 
 
  犠牲者の全体像は今なお分からない。混乱の中で一命を取り留めた朝鮮人の青年たちは罹災朝鮮同胞慰問団を組織し、虐殺の実態を調査した。「虐殺者総数約6661人」(在日本韓国YMCAホームページ)は貴重な記録で今も引用されるが、妥当性はどうなのだろう。 
  朝鮮人の内地への渡航は、震災前年から急増し、今でいう3K職場で安い労働力として使われた。日本語に慣れず、住民との意思疎通を欠く中で、「朝鮮人が蜂起する」「井戸に毒を流した」といったデマが虐殺の引き金を引いたとされる。 
 
  それから半世紀、荒川放水路の聞き書きをしてきた女性教員(故人)が、埋められたであろう遺体の発掘を呼びかけ、1982年9月に3日間の許可を得て重機で河川敷を掘り起こしたが、遺骨は現われなかった。震災2カ月後に警察が2度にわたって密かに運び去ったとの新聞記事があるそうだ。 
 
  市民団体は2009年、土手下で営業してきた居酒屋の土地を譲り受けた。そこに会の事務所と、「悼(いたむ)」と彫り込んだ追悼之碑を建立した。広い場所ではないが、心のこもった石碑だ。 
  追悼式で、虐殺事件に巻き込まれた愼昌範(シン・チャンボム)さん親族の愼蒼宇(シン・チャンウ)さんの話に引き込まれた。朝鮮史を専攻する法政大学の准教授だ。 
 
  昌範さんは94年前の9月4日未明、上野から荒川放水路の鉄橋まで逃れて来た。自警団員が日本刀を振り下ろし、切られた左手の小指が飛んだ。その男に抱きついたところで記憶は途絶える。 
  蒼宇さんは小池知事の問題について、「歴史には隠蔽や捏造が続いてきた。私は親戚に話を聴き、埋められていない(隠された)歴史を明らかにしたい」と語った。さらに、事件の生存者は日本・韓国・朝鮮にまたがることから、「朝鮮半島に平和をつくり出さないと、真相は解明できない」と言い、拍手を浴びた。 
 
  田中 洋一 
(歩く見る聞く 23 2017年9月5日) 


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