2017年12月01日14時56分掲載  無料記事
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【歩く見る聞く】遺体から片方の腕と認識標をとりはずして  田中洋一

  新聞記者時代の2001年に取材しながら何かの事情で紙面に掲載できなかった連載用の原稿が出てきた。裏付け資料にした兵籍戦時名簿を、本人の委任を受けて県庁で書き写したのが懐かしい。その人は埼玉県秩父市の井上浩一郎さん。お元気なら今は93歳。原稿と取材ノートを基に、井上さんの中国戦線の体験を再現したい。 
          ×        × 
  フィリピンに半年前に上陸した米軍が、次は中国の渤海湾に来る。そんな観測情報が井上浩一郎・陸軍一等兵の部隊に流れてきたのは1945(昭和20)年の春過ぎ。山西省太原にいた部隊は、米軍阻止の任務に就く。井上さんの松本中隊は、渤海湾と河北省石家庄のほぼ中間で山東省済南の北にある河北省献県に移駐した。 
  中隊から井上さんら16人が、黄河に架かる軍主要路の橋の守備に道西駐屯部隊として向かう。橋は駐屯地から徒歩で半日かかる。井上さんは守備隊ただ一人の擲弾筒(てきだんとう)手だった。 
  黄河には赤茶色の水が流れていた。河川敷は見渡せないほど広く、そこにトラック1台が通れる道幅の木橋が架かっている。桃や李のまだ青い実が成っていた。橋のたもとの井戸水は、沸かさなくても飲める。井上さんはこの任務が気に入った。 
  ある日、井上さん1人だけ本隊に戻れと呼び出し状が届いた。守備隊に通信兵はいないので、連絡は人手に頼るしかない。伝えたのは「密偵」と呼ばれる中国人で、日本軍の協力者だ。 
  半日かけて本隊に戻った井上さんを追うようにその夜、「守備隊が八路軍に包囲されて全滅」と至急の連絡があった。井上さんは「攻撃される気配は全く感じなかったのに」と驚いた。 
  夜明けを待ち、松本中隊ほぼ全員(約200人)がこの橋に向かう。井上一等兵は20kg近い擲弾筒を肩に担ぎ、腰のベルトには砲弾24発を詰めた。箱に入った砲弾は弾薬手の新井さん(階級未確認)が運ぶ。みな完全武装だ。 
  一行は道を選んで注意深く進んだ。途中で迫撃砲の砲弾が降ってくる。小銃の弾も飛んでくる。砲弾は夕立のように降り、赤茶けた土煙が視界を遮る。広く展開した敵に包囲されているのが分かった。応戦したが、砲弾は間もなく尽きた。 
  中隊長の松本大尉が小山に駆け登って軍刀を抜いたのはこの時だ。「突撃に!」。ときの声を上げた。みな顔面蒼白。井上さんはぞくぞくし、髪の毛が立っているのを感じた。「前に!」の号令を発した松本中隊長を先頭に中隊は駆け出した。 
  私は「突撃に」の「に」が気になり、調べてみた。歩兵のマニュアル「歩兵操典」の突撃の項にこう載っている。 
  突撃を為さしむるには左の号令を下す。「突撃ニ進メ」……「突ッ込メ」の号令にて喊声を発し猛烈果敢に突進し格闘す……敵の射撃、手榴弾、毒煙等に会するも断乎突進すべし 
  突撃の直後、共に行動してきた弾薬手の新井さんがバタリと倒れ、動かなくなった。敵弾が頭に命中している。 
  井上さんは反射的に新井さんの小銃を取り上げ、自身の首にたすき掛けにした。「武器は命より大切。敵に渡してはならない」と叩き込まれていたからだ。 
  さらに突っ込むと、味方があちこちに倒れている。約20m進むと今度は、倒れた機関銃手の軽機関銃(重さ10数kg)を拾い、これも首にたすき掛けにした。両手には自分の擲弾筒を抱えたままだ。 
  「普通じゃ絶対に持てない。夢中になってバカ力を出した」と井上さんは私に語った。 
  敵陣が迫り、「いやー」と気勢を上げて突っ込む。その瞬間、三つの武器を抱えた井上一等兵の異形に驚いてか、目の前の敵兵が左右に割れた。崩れた敵陣の一角を、井上さんたちが駆け抜けた。 
  約4km進むと、日本軍に味方する中国人の護衛部隊がいて、助かったと実感する。その時、左の頬についた傷から血が流れているのに気がつく。白兵戦のさなかに敵弾がかすった跡だ。 
  敵陣を突破した兵は14人しかいない。中隊の残る大多数は、中隊長も小隊長も含めて、倒れた。「敵は圧倒的に多数なのに、作戦は強引だった。敵の陣容を見極めた時点でなぜ引き返さなかったのか。疑問で仕方がない」。井上さんは憤りを私に語った。 
  薄暗くなって、戦場整理が始まる。負傷者を救い出したり、戦死者の遺体を収容したりする。だが敵に油断できない。突撃命令が出た辺りまでいったん戻り、14人が横一列になって進路をたどる。遺体を10人前後にまとめた山を、あちこちに築いた。 
  中隊長の遺体は戸板に乗せて本隊まで運ぶが、兵士は人数が多くて運べない。そこで、鞘に収めていた剣で一人ひとりの片方の腕を切り離して運んだ。左右どちらでもよかった。弾薬手の新井さんも倒れていた。新井さんに「痛いだろうけど、我慢しろ」と心で呼びかけながら、足に力を込めて剣の背を踏んだ。 
  さらに、遺体から金属製の認識票を取り外した。認識票は「靖国神社の鑑札」と呼ばれていて、径数cmの小判型だ。 
  戦場整理の翌朝、井上一等兵たち14人は、守備隊が全滅した橋まで進んだ。数日前まで自身もいた例の橋だ。一帯は友軍機の爆撃で焼け野が原だった。不思議なことに、橋に近い河川敷に犠牲者が埋葬されている。准尉から一等兵まで階級順に一人ひとりの墓標が15本立ち、達筆な行書で階級と氏名が書いてある。八路軍が建てたとしか考えられないが、なぜ? 
  15人の遺体を集め、火葬して遺骨を本隊に運んだ。そこで、戦場整理の際、小銃手1人の遺体が見つからないのに気づく。後日、別の中隊の兵舎を訪れると、彼は重営倉に留置されていた。声を掛けたが、返事はない。肩に銃弾貫通の重傷を負い、血だらけの軍服姿で兵舎の前に投げ出されていたそうだ。 
  井上さんはピンときた。この小銃手は戦闘で気を失い、八路軍の捕虜になった。だが重傷で利用価値はなく、八路は密かに日本軍の兵舎まで運んだのではないか。「立場が逆で、気を失って発見されたのが八路の兵士なら、日本軍は間違いなく殺していただろう」。井上さんは私に打ち明けた。 
       ×        × 
  2001年の春から夏にかけて、アジア・太平洋戦争を生き延びた人々を訪ねて話を聴いた。戦艦武蔵の最後の乗組員、フィリピン・ルソン島をさまよった従軍看護婦……。無事であることを信じられない方々が何人もいた。井上さんもその一人だ。今もお元気だろうか、とお宅に何度も電話したが、つながらなかった。 
 
(2017年11月26日) 


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