2018年01月14日00時57分掲載
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コラム
エイゼンシュタイン監督の「戦艦ポチョムキン」と英国ドキュメンタリー映画運動
映画の著作権が70年という事で1930年代とそれ以前に上映された映画は著作権が切れたことになる。ソビエト映画の「戦艦ポチョムキン」(1925)は第一次ロシア革命(1905)を歌ったプロパガンダ映画として知られるが、この映画も著作権が切れている。共産主義ソ連のプロパガンダ映画と烙印を押されると、見る人も尻込みする人が多いかもしれないが、この映画の表現力や演出力はサイレント映画時代の1つの頂点とも言え、イデオロギーを超えて世界の映画人に大きな影響を及ぼした。
ドキュメンタリー映画の歴史を体系的につづったリチャード・メラン・バーサム著「ノンフィクション映像史」(Nonfiction Film, Richard Meran Barsam ) によると「戦艦ポチョムキン」はドラマばかりか、ドキュメンタリー映画にも大きな影響を及ぼしたことがわかる。ドキュメンタリー映像の故郷と言えば英国であり、今日でも英国はBBCという世界でも優れたドキュメンタリー映像チームを有する放送局を持っている。だが、未だTVが開発されていない1920年代、英国では帝国通商局( Empire Marketing Board )という国家機関の中の映像班によってドキュメンタリー映画の試行錯誤が行われていた。そのパイオニアはジョン・グリアスンであると言われ、エイゼンシュタインのドラマ「戦艦ポチョムキン」やカナダエスキモーの暮らしを撮影したロバート・J・フラハーティの「ナヌーク」(1922)などのドキュメンタリー映画に影響を受けていた。特に「戦艦ポチョムキン」について強く影響を受けたグリアスンは彼の唯一自ら監督した80分のドキュメンタリー映画「流網船」(Drifters)の編集にエイゼンシュタインのモンタージュの手法を取り入れたという。
私はドキュメンタリー映画監督でもあった今村昇平が設立した映画学校で学んだのだが、ついぞエイゼンシュタインのモンタージュ論は学んだことがなかった。私が入学したのは1989年で未だソ連が健在であり、在学中にソ連が崩壊したのだったが、そうしたイデオロギー的な事とは別にモンタージュ論はプロパガンダの手法であり、真実を探るドキュメンタリーの制作には不要である、という考えからだと聞いたことがある。実際に今村昇平監督がそんなことを言ったのかどうかはわからないが、確かにそんなことを言いそうな気もしないではない。ドキュメンタリーの編集は撮影した映像を一定の文法や手順はあるにしても最終的には感覚的に処理すればよいのである、という考え方が強かったのだ。そのことは現像代が高額であまりふんだんに使用できないフィルムの時代から、安価なビデオ時代への移行とともに一層、モンタージュ論的な一種の計画的映像設計は忘れられていったかのようである。
しかし、それでも今日見ても「戦艦ポチョムキン」は面白いし、プロパガンダなどという汚名を超えて感動的な作品だと思う。反乱を起こしたポチョムキン号はロシア海軍の艦隊の接近を前に「周りは敵ばかり」の孤立の中、最後まで「革命に参加せよ」と信号を送り続ける。一触即発の緊張の後「兄弟よ」と艦隊から信号が寄せられた瞬間の湧き上がるような喜びの爆発。このあたりは感動的に作られていて、プロパガンダと知っていてもそのテクニックに心をつかまれる。映像の設計は抜群に巧みである。
こうした映画に草創期の英国のドキュメンタリー映画がどのように影響を受けて編集を行っていたのか、今さらかもしれないが、興味深い。1930年代にドキュメンタリー映画運動の中心は帝国通商局から中央郵便局映画班に移る。この1930年代の映画は著作権フリーになっているのであるから、英国ドキュメンタリーの草創期の試行錯誤を見る企画なども行われてよいように思う。それは今日、作り上げられているTVや映画のドキュメンタリーの草創期を見ることで、原点から何か忘れられたヒントや刺激をくみ取ることができるのではないか、という予感からだ。
英国の初期のドキュメンタリー映画運動の記録「レンズを通して見た英国 ドキュメンタリー映画運動」はBBCによって製作され、ジョン・グリアスンが1927年に政府にドキュメンタリー映画の活用を持ち掛け帝国通商局の中に映画班が生まれるところから始まっていた。グリアスンの映画「Drifters」(ニシン漁の漁船に乗り込んで働く人々を描いている)はドラマ映画に出てくる美男美女とは異なる普通の漁民たちが主役となって描かれていたことで当時、大きな反響を呼び起こしたと言う。その後、グリアスンはドキュメンタリー映画班の職員を30人ほどまで拡充する同時に、必要な撮影機材もそろえていき、一大運動を起こしていく。柱は貧富の格差が激しくなっていた英国社会が1つになるための模索にあったと言う。帝国通商局の映画班は1933年に解散するまでに100本余りのドキュメンタリー映画を製作した。著名なドキュメンタリー史の著者であるポール・ローサもこの映画班のスタッフだった。
やがて中央郵便局映画班(General Post Office , G・P・O)に移ったグリアスンたちは1930年代に一連の映画を製作する。この頃の最高傑作の1つに「夜間郵便」(1936)という作品がある。この映画は鉄道の発達により、郵便システムが進化している様子を夜間郵便の一連の作業により示したものだが、冒頭ロンドンを出発した列車が高速でスコットランドまで走り続ける。その過程で郵便物が仕分けされ、途中でより分けられて配布されていく。英国の詩人オーデンの詩も途中に挿入され、格調の高さすら感じさせる。それは仕事というものが人と人を結び付け、社会を維持しているのだ、と感じさせるからだろう。利益を出すのが唯一の目的という風に労働をとらえていないことがうかがわれる。
1939年のドイツとの戦争を機に、ドキュメンタリー映画製作の中心が今度は情報省に移っていった。ドキュメンタリー映画作者たちは戦時中は政府に協力して抗ナチスの戦争プロパガンダ映画を作っていたのだという。そして戦後のTVの登場によって初期のメンバーは消えていくことになったそうだ。だから草創期の英国ドキュメンタリー映画運動はおよそ15年間だったとBBCは説明している。
そう見ると、草創期の英国のドキュメンタリー映画運動の中核は1930年代であり、この時代は1929年に起きた大恐慌の後の時代であり、大不況の中で石炭採掘労働者や郵便職員など市井の人々の生活や住宅問題など、普通の人々の日常こそ映画の舞台であり、市井の人々こそ主人公なのだという意識を作り出したと言えるかもしれない。グリアスンの問題意識が格差社会の克服と英国が1つになることにあったのだとしたら、貧しい多くの人々をいかに正当に描くか、ということに焦点があったのだと思われる。この時期には中央郵便局映画班以外にも製作母体が生まれ、アーサー・エルトンとエドガー・アンスティの共同監督によるロンドンのスラム街の解体を扱った「住宅問題」(1935)などの傑作が生まれた。
私がリチャード・メラン・バーサムの「ノンフィクション映像史」を紐解くことができたのは偶然、映画学校でドキュメンタリーの講師をしていたのが本書の翻訳者でもあるドキュメンタリー映画監督の山谷哲夫氏だったことである。山谷哲夫氏には「沖縄のハルモニ 証言・従軍慰安婦」や「みやこ」と言った作品があり、これらの作品は日本の辺境でもある島々に日本の歴史を見据えた骨太の作品だった。山谷氏は文化庁から助成金を得て英国の1930年代のドキュメンタリー映画運動の研究のためにロンドンに派遣されたのだった。本書を世に出そうという1984年に山谷氏はこう綴っている。
「いま、ドキュメンタリーの現場では、フィルムからVTRへの大転換が行われている。しかし、どんなに機材が変わろうと、作る側は今までの伝統を批判的に継承し、新しい作品を生み出していくだけである」
■「戦艦ポチョムキン」(1925)
https://www.youtube.com/watch?v=_Glv_rlsdxU
■「カメラマンとは何か」 〜フィルムからビデオへ〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201309022137391
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