2018年01月23日16時15分掲載
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後藤正治著 「探訪 名ノンフィクション」
著名なノンフィクションの書き手、後藤正治氏が「名ノンフィクション」をセレクトしてその批評や自分がどうその本と出会い、つきあってきたか、ということをつづった本である。対象となった作品は以下。
柳田邦男著「空白の天気図」、本田靖春「不当逮捕」、澤地久江「妻たちの2・26事件」、鎌田慧「逃げる民」、ジョージ・オーウェル「カタロニア讃歌」、立石泰則「覇者の誤算」、沢木耕太郎「一瞬の夏」、野村進「日本領サイパン島の一万日」、田崎史郎「梶山静六 死に顔に笑みをたたえて」、小関智弘「春は鉄までが匂った」、佐野眞一「カリスマ」、デイヴィッド・ハルバースタム「ベスト&ブライテスト」、柳原和子「百万回の永訣」、保坂正康「昭和陸軍の研究」、最相葉月「星新一」、大崎善生「聖の青春」、河原理子「フランクル 『夜と霧』への旅」、立花隆「田中角栄研究 全記録」
巻末に沢木耕太郎氏と後藤氏との対談が掲載されており、そこでこの作品選をどう見るか、ということや、ノンフィクションとは何か、と言ったことが話し合われている。結論から言えば評者が変われば人選や作品選も変わりうるし、ノンフィクションの定義も狭義か広義で変化しうる、と言ったことが書かれている。本書が出版されたのは2013年のことで、巻末の対談でも触れられているが、ノンフィクションの書き手にとっては厳しい時代にあり、特に長編のノンフィクションを発表できる雑誌媒体が中々なくなってしまった、ということがあるようだ。
そのことと関係して、年々、インターネットではブログが発達して万人が政治から経済から文学や生活、ファッションまで様々なことを自由に書き綴っている。雑誌のノンフィクションの書き手にとっては発表の場が狭まっているのと裏腹にインターネット空間には膨大に自由に書ける荒野が広がっているのである。だから、文章や構成の出来不出来や事実確認の是非を度外視さえしたら、活字雑誌など買わなくてもネットやソーシャルメディアでそこそこいろんな話題があり、退屈することはなくなっているのではなかろうか。
2009年頃、出版社の賞の受賞歴もあるあるフリーのルポライターに活字媒体の話を聞いたことがあった。その頃、書き手が書ける場を失いつつあり、転職を選ぶ人も出てきている、という話だった。こういう状況を経営の世界では市場の縮小と呼ぶそうだが、そういうことがリーマンショック後に加速していた。TV報道の世界でもフリーの取材者たちはそれまで「特集」などを作ってきたのだが、次第に製作が放送局の関連企業だけで行われ始め、市場の縮小に直面した。過酷なようだが、市場というものは経済原理で動いている。だから世の中の人々が活字や番組の宣伝に金がかけられないとなると、市場は縮小し、そこそこいい仕事をしていたとしても行き場がなくなってしまう人々が出てくる。これはメディアに限らず、様々な産業に通じることである。そして、そうした人々がメディアの外側に出ることになり、同時にインターネットの世界では広大な書ける領域が生まれていた。
1970年代から80年代にかけての時代はノンフィクションの時代とか、ニュージャーナリズムの時代などと言われ、本書にも触れられているが沢木耕太郎氏のようなスターが続々と輩出され、活字であれ映像であれ、そこに多くの人々が集まってきた市場拡大の時代だったが、それから30年後の市場の縮小はそれにどのような影響を投げかけているのだろうか。現実を見る時の眼差しが平板に、あるいは常識や通念に押し負かされる時代になっていないだろうか、と言う気がする。というのもノンフィクションとはまさに思い込みとはかけ離れた事実の面白さを掘り起こして、目の鱗を落としてくれる芸術だったからだ。それは絶えず人間とはなんと不思議な存在か、ということを教えてくれるものでもあった。「探訪 名ノンフィクション」を読んでいると、断片ながらその感覚が蘇り、なんとも喜ばしい気持ちがしてきた。
後藤氏が本書を書き上げて世に出したのはまさにブログの春みたいな時期だったのだが、本書を読むと、それぞれの作品の文章の力を後藤氏の手引きで改めて味わえる。これらの作品は巧みな作家によるプロの文章であり、そこには玉石混交のブログにはないクオリティの凝集がある。そして単に文章力というだけでなく、人間を見る時の視線の深さや新鮮さ、企画の着眼の鋭さに魅きつけられる。そのことはネットの中に氾濫する携帯で撮影した写真ばかり見ているときに、ふとピューリッツァ賞受賞写真集などを目にすると、第一線のプロフェッショナルたちの力を見せつけられる気がするのと同様だろう。しかし、プロの活字ライターを単にブログの世界と対峙する存在、と見るよりも、むしろその間に臨機応変に橋渡しできるようなパイプをもっと作った方が双方が豊かになるのではなかろうか。何かそこに広大な沃野が広がっているような気がするからである。
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