2018年01月24日21時20分掲載
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後藤正治著 「探訪 名ノンフィクション」 その2
後藤正治氏の「探訪 名ノンフィクション」を読んで啓発されることが大きかった。何にか、ということは昨日記したのだが、要はノンフィクションの面白さを今一度、感じさせてくれる本だった、ということである。そして、そのことは書店の記憶を呼び起こした。禁煙歴10年の人がふとタバコを味わっていた頃のことを思い出すとしたらその時の銘柄やライターが具体的に思い出されるように、ノンフィクションを陳列した街の書店の総合雑誌の棚や書棚が思い出された。しかし、それらは数年前に書店が町から消えてなくなった時に過ぎ去ってしまった。書店に行く動機の中の比較的大きなウエイトはノンフィクションを立ち読みしたり、買ったりすることにあったように感じられた。それらの本は社会の面白さとか、人生の味わいを教えてくれる文学だった。
「探訪 名ノンフィクション」を読んでいると、後藤氏のノンフィクションに対する思いとか視点が随所に刻まれていた。それらがまた本書の魅力でもあり、地下を流れる水脈のように感じられる。
「ノンフィクションは、その渦中にあるとき、終わりのない旅路を歩いているような感覚に襲われる。そしていつか、ふいにピリオドが打たれる。振り返ってみると、何ものかに導かれたごとく、<人生>へ、<時代>へ、<歴史>へと、遠くへ筆が届いている時がある。」
(立石泰則『覇者の誤算』について)
「本棚の片隅に、古くなってはいるがいまも愛着ある本が何冊か並んでいる。ジョージ・オウエルの『カタロニア讃歌』もその一冊である。奥付を見ると、『1967(昭和42)年第七版」とある。函入りで、赤一色の装丁、上下二段組で定価600円。かすかに記憶が残っている。大学一年生、京都市内の市電が15円だった。現代思潮社の本は高価で、随分高いなぁと思って購入したものだった。
けれども、高くはなかったのである。<世界>の現在とその後を示唆してくれる書物であったから」
(ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』について)
「『カリスマ』の元原稿は、1997年から98年にかけて『日経ビジネス』に連載されたが、中内とダイエーより名誉毀損の訴えがなされた(のち和解)。そんな一幕はあったけれども、佐野にとって中内は、終始、嫌いな存在ではなかった」
(佐野眞一『カリスマ』について)
「保坂に忘れがたい記憶を残しているのは、面談していて、話が戦時下の出来事になると、石井がきちんと正座し直したことである。真夏の日であっても扇風機を止めた。
石井が起案した文章は、もとより陸軍大臣や軍務局長の指示にもとづいて記されたものである。けれども、自身の記した文によって、百万を超える人々が戦地に赴き、命を落とした。その立ち居振る舞いは、自身の責任を問い続けてきた証であるように思えたのである」
(保坂正康『帝国陸軍の研究』について)
後藤氏が意識し計算していたかどうかはわからないが、後藤氏の文章と抜粋を読んでいると、インターネット空間にまったくないわけではないにしても、中々出会えない文章だと感じさせられる。それはネット世界の言論がしばしば政治的になっている、ということではないかと思う。言い方を変えれば情報の集積・拡散型という事もできるかもしれない。私もその中にいるのだが。あるいは、それは私の触れるインターネットの世界が偏っているのかもしれない。けれども、ネットの世界の言論とは何かが大きく違う、そんな感じを強く受けざるを得なかった。実質賃金の伸び悩みの中でかつて世帯が工面してきた書籍代が通信費に置き替わっているのだとしても、ネットの空間ではこれらのノンフィクション(文学)の代替になるソフトは中々見いだせないだろう。
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